慰霊の園、御巣鷹の尾根追悼慰霊登山記


        
 日航機墜落事故から7年目の1992年(平成4年)9月、サイト管理人の私と家内、それに事故で亡くなった川上和子さんが勤めていた第二出雲市民病院の井原弘子総婦長、職員の田部君、岡田君の5人で島根県出雲市から群馬県上野村に向かいました。(注:現在は上信越自動車道の開通、登山道の一層の整備等、今とは事情が異なる点を考慮してご覧下さい) 2005年12月UP
 新しい登山道路(車両通行可)の開通に伴い、これまでの登山道は2006年7月全面通行止めとなりました。

12日(土)
21時30分 大社町(自宅)出発。
21時50分 第二出雲市民病院到着。一行5人が合流。
22時25分 第二出雲市民病院出発。車は田部君のワゴン車。


13日(日)
1時20分 落合ICから中国自動車道へ。
3時20分 京都通過。
       途中、多賀SAで30分間休憩。
5時25分 小牧JC通過。中央自動車道へ。
6時45分 駒ケ岳SA到着。朝食、休憩。
7時55分 駒ケ岳SA出発。
8時38分 岡谷IC。諏訪市からビーナスラインへ。
10時20分 霧ケ峰高原到着。
11時05分 霧ケ峰高原出発。白樺湖、蓼科町通過。
12時30分 小諸市到着。懐古園、藤村記念館。昼食。

14時30分 小諸市出発。
 いよいよ、上野村に向け出発だ。運転は田部君。佐久の手前から渋滞し始めた。佐久市のスーパーに立ち寄って買い物をする。山に持って上がるお供えの花。井原婦長が見つくろって花束二つにしてもらった。家内は咲子ちゃんにとクレヨンとお絵かきノートを求めた。婦長たちが用意しておられたが、足りないといけないと思い、私は線香を一箱求めた。
 スーパーを出て走り始めたが、交差点ではいたる所渋滞だ。やっと市内を出たと思ったら、「コスモスまつり」とかでまた渋滞。その会場を抜け一路下仁田町へ。しかし、大内峠のあたりから渋滞はひどくなり、下仁田の町を抜けるまで続いた。
 そんな街道のあちこちに、こんにゃくの店がある。「こんにゃく田楽」とか、色々看板に書かれている。何軒も何軒も見ていると食べたくなる。そう言うと、田部君が「入りましょうか」とハンドルを店の方に切ったが、時間がないので止めにした。次第に群馬の山並みが目に入るようになってきた。
 「南牧村」と表示した交差点を右に曲がり、下仁田の商店街に。酒屋さんの前で車を止め、山に持って上がるワンカップのお酒、缶ジュース、それに私たちの飲み物も買い求めた。
 塩ノ沢峠へ向けてしばらく走ると、家の前や道路の両側に、花壇やプランターに植えられた、サルビアの花が見事に咲き続いている。「持って行く訳にはいかないだろうね」と言いながら通り過ぎた。車はやがて山道に差し掛かる。狭く曲がりくねった道を進む。次第に薄暗くなってきていて、私は「日航機墜落の時もこのくらいの明るさだったろうね」と言った。いつまでもこんな山道が続き、明かり一つ見えないので「道を間違えたのでは」と思い始めた頃に峠に出た。上野村の案内看板が立っている。車のライトでそれを見た。

18時40分 やまびこ荘到着
 国民宿舎やまびこ荘に到着。「今日は疲れているから早く宿に入ろう」と、17時過ぎを予定していたのに、1時間半も遅くなってしまった。車から荷物を降ろす。花はバケツを借りて活けておくと井原婦長。受付で「渋滞で遅くなりまして」と言うと、「他のお客さんもそうです」と言われた。食事は20時までなので、すぐ食事にすることにした。鍵を受け取って二階の部屋に上がった。部屋の番号を見ると123号室、室内にはJALのカレンダーが掛かっていた。

19時00分 夕食
 夕食にはこんにゃくの刺身が付いていた。「やっぱり出た、あっさりしておいしいね」とか、若い人は「味がない」とか、女性は「ダイエットになる」と言って食べた。ビールでご苦労さん。そこへ支配人さんが「村長がまいりました。お食事がすみましたら」と言われ、みんなに「食事がすんだら来て」と言って隣の畳の部屋へ案内された。

19時20分 黒澤丈夫村長
 黒澤丈夫村長だ。村役場に「14日午後伺いたい」と連絡したが、「村長は前橋で会議の予定です」とのことで諦めていた。
 名刺を交換し「わざわざお出かけ頂いて恐縮です」と、まずお礼を言った。途中渋滞で遅くなったと話すと、「小海から武道峠がよかったですね」と言われた。軽井沢方面からの車で混むということだ。
 村長は「御巣鷹の尾根の整備、慰霊の園など一通りのことはやりました」、「後は登山道の整備がありますが、揚水ダムの計画がありまして、途中未舗装がありますが、ダムの付け替え道路でやろうと思っている」、「車道もどこまで付けるか、遺族の人も最初は余り近くまで行かない方が良いと言っておられたが、最近ではもう少し近くまで車で行けたら、というお話もあって検討している」と話された。
 さらに「村としては永遠に慰霊の事をやっていく考えなので、遺族の皆さんには安心をして頂きたい」と言われ、私は川上の遺族の近況を話した。キミエお婆さんの話(2年前から脳梗塞で病院生活)をすると「そうですか」と気の毒そうにうなずかれ、「川上さんのお宅によろしく」と言われた。
 その後、「週休二日制でも、村の診療所の医師は休むことは出来ないこと、閉めれば収入も減ってしまう」、「政府は末端のことが分っていない」とも話された。黒澤村長は7期目で、80歳が近いと承知していたが、なかなかお元気そうで、したたかな感じも受けた。
 20分ほどで帰られたが、「どうかお身体に気を付けられて」と、玄関でお見送りをした。そのとき気付いたのは、車は「黒塗り」ではなく、普通の作業用ライトバンで、運転手さんも作業着を身に付けておられ、これを見て「黒澤村長の政治姿勢」を思い知らされた。
 家内たちは「部屋に行ったけど、ひそひそ話しで、入っては悪いかと思って入らなかった」と言ったが、見送りはみんなで行った。

21時00分 123号室
 ここの湯は温泉になっている。お風呂から上がると私の部屋に集まって、下仁田で求めた生酒をやりながら、女性は缶ジュースで、川上さん一家の思い出や、日航機事故のことを話した。つもる話ですぐ時間がたった。明日は山登りだからと22時30分床に就いた。
 [出雲からここまでの走行距離866Km]


14日(月)
6時00分 起床
 疲れていたのでぐっすり眠れた。岡田君は早くから目が覚めていたようだし、私も5時半頃には目が覚めた。6時になったので田部君を起こした。テレビをつけて天気予報を見る。群馬県地方の降水確率は0パーセントとなっている。窓の外には小倉山が見え、空は薄雲がかかっている程度で、雨の心配はないようだ。昨日、霧ケ峰高原で降られているだけに一番の心配だった。山に持って登るものの整理をし、リュックなどに詰め込んだ。部屋から荷物を持って降り、車に積み込んだりロビーに置いて7時30分になって朝食をとった。
 7時50分、朝食が終わると井原婦長が支払いを済ませ、私たちはジュースの空き瓶や水筒などに水を汲んだ。外に出ると原田先生たちがもう着いておられた。「しばらくです」とあいさつをする。奥さんが「花屋さんで用意できなくて、途中の道端で摘んできました」と花を持っておられた。田部君の姿が見えない。「トイレかもしれん」、それでもと岡田君が呼びに行くと、部屋でテレビを見ていたという。全員が揃ったところで、丸く輪になって自己紹介をした。群馬の皆さんは、渋川工業高校の原田先生夫妻、尾瀬の自然を守る会の波戸場さん、上信電鉄労組委員長の大河原さん、総勢9人の追悼慰霊登山となった。

8時10分 やまびこ荘出発
 いよいよ出発です。波戸場さん、大河原さんの車が先に、その後に私たちの、最後に原田先生の車と3台の車で出発した。塩ノ沢を下り、三国峠に向かう国道を反対に村役場の方に曲がり、しばらくして右に曲がると家のひさしに当たるような狭い道になった。こんなに狭い道だったかなと、7年前の事故の時の記憶を呼び起こそうとするが思い出せない。それでも三岐の交差点まで来ると記憶がよみがえった。堀川さんのお宅はあそこだったはず、などと思った。7年前はもう日暮れが迫っていた。三岐を左に曲がり、御巣鷹の尾根登山口に向け車を走らせる。結構奥まで人家があった。しばらく行くと未舗装になっている。昨晩黒澤村長の話にあったところだ。途中コンクリートミキサー車に何台か出合った。しばらく行くと砂防ダムの工事現場があった。道路に沿って沢の川が音を立てて流れる。井原婦長は「この前はここをジープに乗せてもらって上がったよ」と言われた。「この前」と言う井原婦長は事故の翌年に登っている。再び舗装道路となって、しばらくすると広場に出た。井原婦長が「ここから歩くんだわ」と言われた。黒いタクシーが1台停まっていた。私たちより一足先に、遺族の人と思われる方が手に花を持って出発されたが、その人が乗ってきたタクシーかもしれない。

8時48分 登山口到着
登山口の広場(駐車場)
沢づたいに登山する一行
みかえり峠のお地蔵さん

 広場には御巣鷹観音像が立っている。車を止めると、私たちは銘々にリュックを肩にした。原田先生夫妻は登山靴に履きかえられた。波戸場さんと大河原さんはアコーデオンを肩から背中に背負われた。原田先生の奥さんは手に花束を持って。

8時55分 登山口出発
 さあ、登山開始だ。小さな板に「御巣鷹の尾根 これより 距離1808.0m 高さ367.8m」と書いてあった。登山道の入り口にはステンレス製の車止めがしてあった。バイクで登る不届き者がいたかもしれない。道は1m少々の幅で最初はゆるやかだった。沢に水が流れ、沢をまたぐところには木の橋が掛けられている。沢には結構水があって、5分ほど行ったところに小さな滝が落ちていた。井原婦長と家内は登山口に置いてあった杖をついての登山だ。道は次第にきつくなり、道の端にステンレスの手すりや鎖が設けられていた。時にはそれにつかまって登った。昨日は寒くジャンパーを持って来るべきだったと心配したが、歩いている内にじっとりと汗がにじんできた。

9時13分 みかえり峠到着
 道が急で足元を見ながらの登山なので、先を見通すことは出来ない。「みかえり峠ですよ」と言われ、気がついたらみかえり峠だった。少し平らになっていて「みかえり峠」と木柱に書かれている。地蔵さんが祀られている。写真で見たように向こうに御巣鷹の尾根、墜落現場が見える。「ああ、来たんだ」と思った。「やまなみのかなたへ」をリュックから出して、表紙の写真と比べてみた。木の枝ぶりも変わっていない。木のベンチが設けてあり、みんなそこに座って一休みだ。「8月、夕暮れにここから見ると、ライトを持って歩く人の明かりがチラチラと見えるんですよ」と大河原さん。

9時22分 みかえり峠出発
 10分ほど休んで出発だ。「峠」だから道は下り坂になっている。少し下るとまた登り坂となった。道の両脇には野草がきれいな花を付けている。道の左上にプレハブの小屋が目に入った。「日航の小屋ですよ」と聞かされた。道はその小屋の方左に行く方と、右に行く方に分かれていた。右に行くとスゲノ沢だという。

9時53分 日航小屋到着
 ひとまず小屋で休むことにして入った。小屋には男女2人の日航職員がいて名刺を渡すと、「責任者はいま下にいて、12時頃には上がって来ます」と言われた。職員はお茶をJALのマークの入った紙コップに入れて出して下さった。のどが渇いていたのでおいしかった。その内、家内と岡田君の姿が見えなくなった。どうも先に尾根に登ったようだ。お礼を言って小屋を出た。

10時05分 川上さんの墓標到着
上方が登山口、人が見える所が川上の墓標
故 川上 英治 和子 咲子と書かれた墓標
川上の墓標の前で追悼の歌を歌う
スゲノ沢に立ち並ぶ墓標、手前が川上の墓標

 小屋を出て歩き始めたと思ったら、「ここが川上さんのところですよ」と言われた。群馬の人が先に道から真下に降りて行かれた。私たちも続いて降りた。夏草の上を踏み分けて滑りそうだった。スゲノ沢、川上さんの墓標は道のすぐ下だった。これまでの写真からは、こんな場所とは想像していなかった。想像していたものとは違っていた。この周りには他の人の墓標は余り目に入らない。「吉崎さんはどこですか」と聞いた。「あちらです」と言われて目を移すと、墓標が沢山並んでいるのが目に入って、最前列の右端の方に吉崎さんの墓標があった。川上さんたちと同じ場所だったはず、なのに墓標はだいぶ離れている。その時、沢を挟んだ山肌に「無数」と思われる墓標があるのに気が付いた。この光景の写真は見ていない。ここでは約200人の人が亡くなっている。事故のものすごさを改めて認識させられた。
 家内と岡田君はまだ尾根の上だ。「おーい、おーい」と呼ぶが返事もない。私はリュックの中から4本の草刈鎌と作業手袋を出した。「さあ、草刈だ」。その内家内らも降りてきて、みんなで草を取った。川上さんの庭から持ってきて植えたという、豆芝の木がちゃんと根付いて立派に葉を茂らせていた。草を刈ると墓標の前から、以前に供えられたジュースの缶が出てきた。墓標の周りぐるりと草刈が出来てきれいになった。
 墓標の前にお供え物をした。家内は一つ一つ「これは咲子ちゃんのジュース」、ワンカップの酒の蓋を取りながら「二つないと和子さんが『私のがないが』とけんかになるけんね」などと言いながら供えた。咲子ちゃんには、クレヨンとお絵書き用のノートを供えた。元気ならもう中学2年生だが、咲子ちゃんはいつまでたっても小学1年生だ。私は追悼文集「やまなみのかなたへ」と、今日の赤旗日刊紙を墓前に置いた。赤旗一面トップは見出しに「兵庫・南光町 山田町長が圧勝、4選」の活字がおどっている。
 ロウソクに火をともし、線香に火を付けた。線香も沢山用意していたので、「これは誰だれの、これは何とかさんの分」と来られなかった人の分まで立てた。線香の大きな煙が立ち昇った。皆で墓標に手を合わせた。
 井原婦長が病院から持ってきた、慶子ちゃんの実習感想文を、家内が墓標に向かって朗読をした。上の道の小屋の前で田部君がコーヒーを沸かしている。やがてそのコーヒーを持って田部君が降りて来た。人数が多くなって、持って来た紙コップでは足りなくなったが、二人で一つということで注いだ。まず墓前に供え、みんなで頂いた。岡田君が「これは苦いが」と言った。確かに苦かったが、そんな事は余り気にならなかった。「6年前にもここでコーヒーを入れた」と井原婦長は話した。この話も嬉しかった。
 大河原さんが「文集に『わが母の歌』があったので、歌詞を用意してきましたから歌いましょう」と、10枚ほどのコピーを渡された。実は私もこの歌を歌おうと思っていた。しかしアコーデオンの伴奏があるとは思ってもいなかった。本当に嬉しかった。岡田君などは「この歌は知らない」と言う。年代の差を感じる。墓標を前に40歳代の者が大きな声で歌った。歌声とアコーデオンの伴奏がスゲノ沢から御巣鷹の尾根に響いた。続けて「嗚呼御巣鷹山」「三池の主婦の子守歌」「上を向いて歩こう」、咲子ちゃんへと「月の砂漠」を歌った。家内は「やまなみのかなたへ」を手に取って、千春君の詩「ぼくの宝石」を朗読した。みんな涙が出て、手で拭った。他の遺族の姿も何人か目に入った。時間も過ぎたので、重い物は帰りに寄ることにしてここに置いて、昇魂之碑のある尾根に向かった。空からは太陽の光が降り注いでいた。

11時20分 昇魂之碑到着
 スゲノ沢から尾根に登る道のあちこちに墓標が立っていて、手を合わせながら登った。昇魂之碑にもお花を供え、線香をたいた。鎮魂の鈴に銘々書いてつるした。「りりーん、りりーん」と音がした。碑に向かって左手に「U字溝」の尾根が見える。日航機が墜落直前に機体をこすった尾根で、樹木が途切れていて今でもはっきりと分った。私はリュックから5万分の1の地図や、事故現場の図などを取り出し地面に置いた。田部君に磁石を借りて地図の方位を決めた。みんなは地図を見ながら山の名前など探した。「坂本九ちゃんの墓標はこの昇魂之碑の上の方です」と教えてもらった。昇魂之碑の上には、遺族が建てた事故を記録した石碑があった。12時を回ったところで下山することにした。

12時10分 川上さんの墓標出発
 川上の墓標に降りる途中でも遺族の人とすれ違った。墓標のところに置いておいたリュックやアコーデオンを肩に掛けた。スゲノ沢をもう一度見渡した。それにしても沢山の墓標だ。次いつ来れるかは分らないけど、「いつかまた来るから」と、スゲノ沢を後にした。日航小屋に寄ろうかとも思ったが、時間にせかされそのまま下山をした。下りは早かったが急なところでは足を取られそうで、手すりなどにつかまった。田部君は尻餅をついてしまった。途中右手の谷を指差して「あそこが水平尾翼の落ちていたところです」と説明を受けた。なるほどその周辺だけ樹木がなかった。みかえり峠で10分ほど休憩をした。登るときには気が付かなかったが、プレハブの小屋が小さく目に入った。その右の方が川上の墓標だが、そこは手前の尾根の陰になって見えなかった。

12時50分 登山口到着
 登山口に着いた。車の数が増えていた。荷物を車に積み込むとひと休みだ。原田先生が用意したお握りをみんなに下さり、それをほおばった。時計を見ると、もう1時になっていた。上野村役場へ1時に行くと言っていたけど、昨晩村長にお会いしているので勝手に遅れて行くことにした。13時15分、登山口を出発した。帰りも未舗装のところでは砂埃が舞って、窓を閉めて走った。25分ほどで三岐の交差点に出た。

13時50分 慰霊の園到着
慰霊の園、慰霊塔、右端は聖観音
慰霊の園、左の建物は管理事務所、右は展示棟

 慰霊の園は少し小高いところにあった。私は神流川に沿った国道のヘリくらいに思っていた。慰霊の園はきれいに手入れされていた。車を降りると慰霊塔に向かった。みんなが慰霊塔に線香を捧げ手を合わせた。「この慰霊塔の8Km先が御巣鷹の尾根だよ」と話した。慰霊塔の両側にプランターに植えられて花が咲いている。サルビアの花も真っ赤に咲いている。出雲を出る前に尼崎の今井さんに「御巣鷹にサルビアを持って登るから」と言っておきながら、花屋さんになく出来なかったけど、ここの花で和子さんには勘弁してもらうことにした。慰霊塔の後ろに回って名牌のところへ行った。川上英治、川上和子、川上咲子と3人の名前が並んでいる。みんなはそれを手でなぞった。原田先生が「名前を全部読むと20分くらい掛かりました」と言われた。520名の名前が並ぶ。
 展示棟には事故の時の写真が掛けられ、遺族などがつくった仏像や掛け軸が置かれている。ガラスケースには追悼文集などが並び、そのケースの上に「やまなみのかなたへ」が2冊、2個所に分けて置いてあった。だいぶ手にとってもらえたようで、少しよれよれ気味になっていた。それよりも表紙の印刷の色がさめていたのには、印刷が悪かったのかとがっかりした。ケースの上には文集のチラシを送ったのがまだ張られていた。各務先生の「今日に充実を」も並べられていた。家内は管理事務所に行って「鎮魂のしおり」を2冊求めてきた。
 波戸場さん、大河原さんとはここでお別れすることになった。「思いがけず、良い登山になりました」とお礼を言い、みんなで車を見送った。14時40分、慰霊の園を後にした。
 大変立派な道路が開通しており、事故の時にはなかった道だ。原田先生の先導で上野村役場に向かった。

14時55分 上野村役場到着
 みんなには待っていてもらい、家内と二人で役場に入った。田村総務課長が応対され、1時の予定が遅くなったことを詫び、「昨夜は村長さんに来て頂き恐縮しました」とお礼を言うと、「やっぱり村長は上がりましたか」「どうぞお上がりください」と言って頂いたが、「時間がなくて」とお断りをし、川上のところから預かった俵饅頭と、私からの二十世紀梨の箱を「皆さんで召し上がってください」と渡し役場を後にした。
 原田先生の案内で山村センターの食堂に入った。考えてみると未だ昼食を取っていなかった。何を食べようかとメニューを見ると「猪豚煮込みうどん」というのがあった。猪豚は上野村の特産のようで、国民宿舎の追加料理にもあったが、遅く着いたので食べることが出来なかった。そこでこの猪豚煮込みうどんを食べることにして、全員がそれを注文した。田部君は隣のガソリンスタンドへ給油に行った。

15時45分 山村センター出発
 原田先生夫妻に見送られて山村センターを出発した。運転は私だ。新しくなった国道を、上野村の神流川に沿った集落を右手下に見ながら走った。三岐に差し掛かって、堀川さんの家と思われる玄関から、少し腰の曲がった小柄なお婆さんが出て来られるのが見えた。時間もなく車を停めることは出来ない。車は武道峠に向かって登った。道は舗装され所々拡幅もされて良くなっていた。もやのようなものが掛かっていて遠くは見えない。7年前の8月峠の途中から、ヘリコプターが何機も飛ぶ、事故現場の方向の山並みを見たが、今日は何も見えない。峠に差し掛かる。「ここが武道峠」と言ってゆっくり走ったが、停まることはしなかった。長野県北相木村に入って、道は下っていった。
 16時57分、小海町から国道141号線に入った。さらに八ヶ岳道路に。清里に来たが、もう清里どころではない。見えるはずの八ヶ岳は霧の中だ。17時50分、小淵沢ICから中央自動車道に入る。車はライトをつけて走る。18時35分、駒ヶ根ICで降りる。料金所で「国民宿舎の方向は」と聞くと「右」ということで、右折する。おおよその見当はついていても、地図も持たないので案内看板に車のライトを当てて見たが書いてない。山勘で左に曲がってしばらくして、「すずらん荘があった」と岡田君が見つけた。
 18時45分、国民宿舎すずらん荘に到着した。
 [本日の走行距離219Km]


15日(火)
7時39分 すずらん荘出発。
7時45分 駒ケ岳SA到着。
8時10分 駒ケ岳SA出発。
10時10分 多賀SAで15分間休憩。
11時50分 西宮SAで30分間、昼食休憩。
14時55分 東城ICで中国自動車道を降り、国道314号へ。
17時15分 第二出雲市民病院到着。
17時50分 解散。
 [本日の走行距離675Km] [全行程走行距離1760Km]
18時20分 大社町(自宅)到着。



追記:
1995年、追悼慰霊登山
 事故から10年目の9月14日(木)から17日(日)、再び追悼慰霊登山を行った。
 メンバーは岡田君が行けなくなり、4名で上野村に向かった。行程は前回とほぼ同じだが、上信越自動車道が佐久市まで開通しており、佐久ICから下仁田ICまでこれを利用した。14日夜、出雲市を出発、前回の反省から早めに上野村に入った。15日14時に国民宿舎やまびこ荘に到着、すぐに慰霊の園にお参りし、黒澤村長宅へ表敬訪問、銘木工芸センターへ行き、17時30分にやまびこ荘に入った。
雨具を着け、傘を差しての登山
サイト管理人(私)と仲沢勝美さん
墓標に手を合わせる宇都さん
 16日、登山の日の夜が明けた。ところが外は雨だった。「超大型で非常に強い台風12号が太平洋上にあって、明日にも関東に上陸する恐れがあり、太平洋側に大雨も予想される」と天気予報が伝えている。「さあ、どうしよう」とみんなで相談したが、「せっかく来たのだから、登ろう」ということになった。こういうこともあろうかと、用意をしてきた雨具を着、傘を差しての登山となった。今回は原田先生夫妻をはじめ、群馬の人が沢山一緒に登山して頂いた。
 前回同様、日航のプレハブ小屋に立ち寄った。今回は日航の職員はいなかったが、仲沢勝美さんがおられた。名前は伺っていたが、お目にかかるのは初めてだ。仲沢さんは缶ビールを片手に食事中だった。「島根県出雲から、川上の追悼に来ました」と言い、名刺を交換した。名刺には「日航機遭難 昭和六十年八月十二日 御巣鷹の尾根管理人」とあり、左上にヘルメット姿の顔写真がカラーで印刷されている。その写真の下に小さく、住所、電話番号、そして仲沢勝美と印刷されていた。仲沢さんは箸を止め、ポットの湯を注いでお茶を入れてくださった。私は出雲の遺族の話しをし、仲沢さんは事故の時の模様など話された。その中で、「生存者が発見されたのは、川上さんの墓標のある所ではなく、現在「御巣鷹の尾根 案内図」の看板が立っている付近だった」と言われた。これは私にとって初耳だった。リュックに入れてきた俵饅頭の箱を「出雲大社のお菓子です。奥さんと食べて下さい」と差し上げた。
 今回気が付いたが、この小屋には草刈鎌が沢山用意されている。群馬の人の参加が多かったので、この鎌を借りることにした。川上の墓標に行き、みんなで草刈をした。雨はそう強くはないが、止むことはなかった。草刈が終わった頃、上の道からこちらに降りて来られる3人の姿がが見えた。そして、川上の墓標にやって来られた。宇都さんだ。川上和子さんの鹿児島の実家のお兄さん夫妻と息子さんだった。「お久しぶりです」とお互いにあいさつをした。別に打ち合わせていた訳でもないのに、これは奇遇だ。宇都さんは「神様のお引き合わせです」と感激された様子だった。川上の墓標のお参りを済ませ、昇魂之碑のある尾根に登った。宇都さんとは下山をするまでご一緒した。
 13時30分、登山口に着いた。ここで群馬の皆さん、宇都さんとも別れ、三岐から武道峠へ。そして今夜の宿舎である、岐阜市の地方公務員保養所、長良川会館に向け、一路車を走らせた。


 黒澤丈夫さんが他界されました。心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
訃報
 10期40年にわたって上野村のかじ取り役を務めた黒沢丈夫元村長(97)が22日、富岡市内の病院で肺炎のため死去した。黒沢元村長は85年の日航ジャンボ機墜落事故後には、犠牲者を供養する財団法人「慰霊の園」設立に奔走するなど遺族支援に尽力した。事故から26年。大惨事を現場で体験した語り部がまた一人亡くなった。事故の遺族や村関係者からは死を悼む声が相次いだ。
 黒沢元村長の家族によると、黒沢元村長は13日に発熱し、19日に同市内の病院に入院。20日に心不全を起こし、22日午後6時52分に息を引き取った。
 墜落事故の遺族でつくる「8・12連絡会」の美谷島邦子事務局長は悲報を知り、「すごく寂しい。事故を風化させないように、いち早く慰霊の園を作ってくれた。私たち遺族のことも自分のことのように考えてくれて……。今も感謝の気持ちでいっぱいです」と死を惜しんだ。
 事故当時から遺族を支援してきたボランティア団体「ふじおか・おすたか・ふれあいの会」の坂上シゲヨ会長は、事故当時の黒沢元村長の働きぶりを知る一人。「決断力がある人だった。身元不明の遺骨の保管場所の確保など、陣頭指揮をとっていたのを思い出す」と振り返った。
 村役場職員として黒沢元村長の下で働いた神田強平村長は「村民の気持ちの支えのような人だった。時間がたつと心にぽっかり穴が開くだろう」と語った。 (毎日新聞 2011年12月24日 地方版)

訃報 
 名誉村民である元上野村長黒澤丈夫様におかれましては、平成23年12月22日にご逝去されました ここに生前のご厚誼を深謝し 謹んでご通知申し上げます おって葬儀 告別式につきましては 黒澤家及び上野村の合同葬をもって 下記のとおり執り行います また 誠に勝手ながら 御香典 御供花 御供物の儀は固くご辞退申し上げます
 記 1 日時 平成24年1月22日(日) 午後2時より  2 場所 上野中学校体育館 (上野村楢原113) (上野村HPより)


 仲沢勝美さんが他界されました。心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
訃報
 仲沢勝美氏(なかざわ・かつみ=御巣鷹の尾根元管理人)1日午後1時36分、肺炎のため群馬県下仁田町の病院で死去、86歳。群馬県出身。自宅は同県上野村楢原206。葬儀・告別式は5日午後1時から同村乙父2009の1、構造改善センターで。喪主は長男定信(さだのぶ)氏。
 日航ジャンボ機墜落事故翌年の86年から04年まで、事故現場となった御巣鷹の尾根の登山道整備などに尽力した。
(注)通夜は4日午後4時から自宅で (四国新聞 2006/01/02 22:22)

       

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