2007年、灯籠流し、御巣鷹の尾根、慰霊式

 2007年8月11日から13日の3日間の日程で、家内と二人で上野村に向かいました。今回はこれまでのように車ではなく、公共交通機関を利用しました。8月11日、12日に上野村に行くのは初めてです。13日、帰りに日本航空安全啓発センターを見学しました。


8月11日(土)

 6時40分、 出雲市大社町の自宅を車で出発。7時15分、出雲空港に到着。
渡されたカード

 7時50分発のJAL1662便(機種A300−600R)で羽田へ。機内で客室乗務員さんに「これから御巣鷹へ行くところです」と話しました。するとしばらくして葉書大の一枚のカードを持って来られました。「ご搭乗ありがとうございます。」と印刷されたカードに手書きで、「日付、飛行時間、速度、高度、東京のお天気」等が書かれ、更に「1985年の大事故から22年が経ちました。私たちJALは絶対に忘れることなく、安全運航に努めてまいります」と書かれていました。このようなカードを頂くとは思ってもおらずびっくりしました。
 9時20分、羽田空港に到着。東京モノレール、JR山手線で東京駅に。更に10時44分発の長野新幹線、あさま517号で高崎市へ。11時39分到着。携帯電話で原田さんに連絡。程なく車で迎えに来てもらえました。
日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所の石碑

藤岡市民体育館跡
 途中昼食をとって先ずは藤岡市に向かいました。案内された所は藤岡市の中央公園で、原田さんの説明では「事故の時、遺体安置所となった藤岡市民体育館が建っていた所で、身元確認が終わった後に取り壊され、跡地に市民ホールが建てられています」ということでした。その横に「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の石碑が建立されており、当時の状況が刻まれていました。途中、道の駅・鬼石で休憩。15時10分に宿舎のすりばち荘に到着しました。日朝協会群馬県支部の皆さんと合流。一つの部屋に集まって自己紹介をしました。

灯籠流し
 17時20分、宿を出発。灯籠流しの行われる村役場横の駐車場へは10分程で到着。すぐに神流川の河原へと下りて行きました。
 既に灯籠が並べられ、多くの人で混んでいました。美谷島さんに会わなくてはと見渡しました。すぐに分り、「祝部です」と名刺を渡しました。忙しそうなのでその場で話をすることはしませんでした。河原には大きな灯籠が数個と小さい灯籠が300個並べられていました。家内はバックから筆と墨汁、皿を出し小さな灯籠に川上英治さん、和子さん、咲子ちゃんの戒名と俗名を3個の灯籠に書きました。更に英治さんの姉さんから寄せられた句を2個の灯籠に書き、計5個の灯籠を準備しました。
河原で灯籠流しの準備
灯籠にメッセージを書く

 オカリナのグループと高崎アコーデオンクラブの演奏が交互に流れ始めました。そうした中で全ての灯籠に火がともされました。スピーカーから「この度は尼崎脱線事故、明石歩道橋事故の遺族の皆さんも参加頂いています」と紹介がありました。
 私が少し驚いたのは、並べられた灯籠の内、文字(メッセージ)が書かれたものが意外に少ないという事でした。それだけ遺族の参加が少ないだろうかと思いました。
 6時56分に黙とうをして、灯籠流しが始まりました。まず大きな灯籠が流されました。日朝協会の人も作って来た大きな灯籠を流されました。 私たちは家内が2個、私が1個、そして原田さんに2個持ってもらい、行列の順番を待って川面に浮かべ流しました。一通り流しましたが、まだ多くの灯籠が残っており、スピーカーからの呼び掛けに応じ、再び列に並び、何も書いてない灯籠を流しました。15分程で全ての灯籠が流し終えられました。
 その後、「シャボン玉飛んだ」の演奏が流され、シャボン玉を飛ばし、「夕焼け小焼け」の演奏でペンライトを振りました。19時15分、遺族代表の閉会のあいさつがあり閉会となりました。この時間、周囲は既に暗くなっていました。私たちは駐車場に行き、宿舎へ帰りました。

山陰中央新報社新  島根の家に帰ったら、知人から
「新聞で見たよ」と言われました。
調べたら、12日付け山陰中央新
報〔共同通信〕の一面に「鎮魂の
灯籠流し」のタイトルで私たち3人
が灯籠流しをしている写真が掲載
されていました。
 (左の写真、サイズ、縦10p×横13p)

 【写真下の説明】
 1985年8月12日に起きた日航ジャンボ
機墜落事故の現場となった「御巣鷹の尾根」
のふもとを流れる神流川に灯籠(とうろう)を
浮かべ、犠牲者の冥福を祈る遺族ら=11日
夕、群馬県上野村(29面に記事)

 
















8月12日(日)

追悼慰霊登山
 朝5時過ぎに目が覚め、家内も起きて布団を片付けました。同じ宿にはテレビ局の人も泊まっていましたが、6時半過ぎには中継車をもって出発して行かれました。
 8時5分、すりばち荘を3台の車に分乗して出発。国道299号線は以前に改良されていましたが、三岐からの道も上野ダム建設関連で立派になっていて、数えると8つの長いトンネルも開通していました。
ジャンボタクシーが迎えに

 8時45分、元の駐車場に着きました。と言っても駐車場はもとより、そこへ行く路上にも車が停めてあり、最後尾には「これより先満車」の看板が置かれていました。やむなく最後尾の車の後ろに駐車しました。「どうなるだろう」と不安に思っていたところへシャトルバス(ジャンボタクシー)がやって来ました。皆でシャトルバスに乗せてもらい、8時55分新駐車場に着きました。シャトルバスには「慰霊の園」の張り紙が掛けられており、何台もがひっきりなしに往復していました。登山口には「登山道案内図」があり、「現在地から昇魂の碑まで約800mです。(高低差180m)」と書かれていました。
 9時10分、登山を開始しました。少しなだらかな道でしたが、すぐに急坂になりました。登山道が短縮され、「何とか登れるだろう」と考えて来ましたが、その考えが甘かったことに直ぐに気付かされました。結構きつい勾配で、山道ですから足を取られそうになり、だんだん足が痛くなるのに気付きました。それでも何とか頑張らなくては、登らなくてはの一心で歩きました。手すりのパイプや鎖のある所では、それにつかまって一歩一歩登りました。途中「すげの沢のささやき」の碑のあるところで休憩。更に登ると、やっと山小屋が目に入るところまでたどり着き、本当にほっとしました。9時30分、プレハブの山小屋に到着しました。
 少し休んでスゲノ沢へ向かって出発。小屋を出た所に「ご遺族 受付」と書かれた台があり、女性の方が一人で受付をしておられました。私は「直接の遺族ではありませんが、島根の川上の友人でやって来ました」と告げると、「どうぞ記帳して下さい」とおっしゃったので、川上英治、和子、咲子と書き、私と家内の名前を書きました。書き終えると川上の墓標へ向かいました。
川上さん一家の墓標

 9時40分、川上さんの墓標に到着しました。墓標は以前より短くなっていましたが、ニスを塗って手入れがされており、川上の文字がはっきりと読み取れました。日朝協会の人が持ってきた線香に火をつけ、参加者に配られました。私も頂き墓標に向かい手を合わせました。家内は御詠歌の追弔和讃を奉詠しています。私と家内はここまでで、昇魂之碑のある尾根への登山を断念しました。もうこれ以上登るのは無理だと思ったからです。日朝協会の人は「小屋で待っていて下さい、私たちは登って来ますから」と出発して行かれました。
 スゲノ沢は木が大きく伸びて、森の様相を呈していました。川上さんの墓標の場所から以前は見えていた向かいの墓標は木に隠れて直接見ることは出来ません。「広葉樹の生長は早いから」と先ほど日朝協会の人が言っておられました。20年前に川上さんの遺族が墓標の前に植えた豆柴の木は、日陰になってほとんど成長していませんでした。私と家内、原田さんの三人はしばらく墓標の前に居て、10時25分、山小屋へと向かいました。
 山小屋で休憩をし、11時を回った頃、宿から持って来たおにぎりの弁当を食べましたが、ほとんど食欲はありません。時々小屋の外へ出て見ますと、この時間になっても次々と登って来る人が絶えません。 今度の登山で感じたことの一つに、若い人の姿が多く見かけられたことです。中には小学生と思われる子どもさんも。もちろんお年寄りの姿も目にしますが、どちらかといえば少数です。
 11時50分、尾根から下りてこられた日朝協会の人が「アコーデオンサークルの人が川上さんの墓標の前で演奏をして下さるので行きましょう」と誘いに来て下さいました。川上さんの墓標へ行くと、少し上の墓標の所で演奏をされていました。そこが終わると川上さんの墓標へとやって来られました。早速「わが母の歌」の演奏が始まりました。私たちは演奏に合わせ「あらぐさの実がうれて、土深く芽ばえる朝に、あああーわが母こそ太陽・・・」と歌いました。高崎アコーデオンクラブの大河原さんは、「毎年、ここで『わが母の歌』を演奏していますよ」とおっしゃって下さいました。
 12時10分、下山をすることになりました。登るときほどではありませんが、下りでも結構きつく、足を取られそうで、手すりのある所ではそれにつかまっての下山です。12時35分、新登山口に。シャトルバスに乗って旧登山口まで下りました。
 今朝来た道を引返します。途中、黒澤丈夫前村長宅を訪ね、「村長さんはお忘れでしょうが、以前こちらに来た時お会いしました祝部です」と、名刺とわずかなお土産をお渡しし、13時30分、黒澤家を後にしました。 琴平センターで休憩、すりばち荘に帰り、温泉に入る人もいて、大広間で横になったりして体を休めました。私は思ったより汗をかかなかったので温泉には入りませんでした。
仲沢勝美さんのお墓にお参り


追悼慰霊式、ロウソク供養
 16時20分、早めの夕食。17時、すりばち荘を後にして、慰霊の園に向かいました。 上野中学校の校庭が臨時駐車場になっており、そこに車を停めました。「仲沢勝美さん(元御巣鷹の尾根管理人)のお墓が近いのでお参りして行きましょう」と言われ、皆で歩き始めました。17時20分、枝垂桜で知られた中正寺(天台宗)に。仲沢さんのお墓はお寺の境内にある枝垂桜の隣にありました。用意した線香を焚いて、「本当にご苦労さまでした」と手を合わせました。仲沢さんの戒名は「慰山勝道居士」と霊標に刻まれていました。 校庭からシャトルバスが運行されていましたが、徒歩で行くことにしました。坂道で疲れた足には応え、汗がにじんできて、次々と登って来るシャトルバスやタクシーが恨めしく思えました。
 17時40分、慰霊の園に到着。慰霊碑前の追悼慰霊式の会場には大型のテントが張られ、既に多くの人の姿が目に留まりました。記帳所で記帳を済ませ、展示棟の中を一通り見て回りました。会場のテントに行き、私たちは日航関係者の後ろの席が空いていたので、そこに腰を下ろしました。私たちの後ろには作家の柳田邦男さんの姿も見られました。
追悼慰霊式の会場

 18時丁度、「日航機事故 ご遭難者 二十二周年 追悼慰霊式」が開会されました。式は、開会の辞、黙祷、式辞(財団法人慰霊の園 松元理事長)、献花(理事長、ご遺族、慰霊の園役員、国交省航空局関係者、茜観音建立・機体回収運搬作業関係者、上野村民代表、参列者)、最後に閉式の辞の順で進められました。私たちは参列者の時に、白菊を日航の女性職員から受け取り、献花をしました。追悼慰霊式は約30分で終了しました。
 引き続きロウソク供養が行われました。「遺族の方、どうぞ点火してして下さい」とアナウンスがあり、「祝部さんも行ったら」の声に押されて、家内と二人で前に出ました。女性職員から点火用のライターを家内が受け取り、名牌に刻まれた川上さんの名前の所へまっしぐらに行きました。そして、名前の周りのロウソクの何本かに火を点しました。他の遺族の人たちも銘々に火を点していき、既に周囲が暗くなった中、520本のロウソク全てに点火されました。
ロウソク供養で火をともす

 自席に戻り椅子に掛けていると、「間もなく墜落の時刻です。黙祷を行いますのでしばらくお待ちください」とアナウンスがありました。18時56分、墜落の時刻に合わせ黙祷を行いました。最後に松元理事長のあいさつがあり、19時、全ての日程が終了しました。帰りはシャトルバスに乗り、中学校の臨時駐車場へ。日朝協会群馬支部の皆さんと別れのあいさつを交わし、お礼を言って原田さんの車に乗り込みました。これで上野村とお別れです。原田さんは、車を塩ノ沢峠の方に向け走らせました。塩ノ沢峠には立派なトンネルが開通していました。南牧村、下仁田町を通り一路高崎へ。20時30分、高崎駅西口前の駐車場に到着。原田さんの案内で、APAホテル高崎駅前にチェックインしたのは8時35分、原田さんに二日間お世話になったお礼を言ってお別れしました。



8月13日(月)

日本航空安全啓発センター
 8時、ホテルをチェックアウト。高崎駅から8時31分発、上越新幹線とき306号で東京へ。東京モノレールに乗って整備場駅で下車。駅は無人駅で降り立った者も私と家内の二人だけでした。駅前に出ると周辺案内図があり、そこにも安全啓発センターの表示がなされていました。アクセスの載ったパンフレットと街並みを比べてみますが、確かな方向が分りません。とりあえず、右方向に進み、交差点があって角にガソリンスタンドがあり、そこを右折しました。「JAL」のロゴマークが掲げられたビルが幾つも目に入ります。その中の一つに飛び込み「安全啓発センターはどちらでしょうか」と尋ねますと、「向かいのビルです」と教えて頂きました。
事故原因とされた後部圧力隔壁
壊れた座席

 10時35分、そのビルに入りますと、一階に受付があり、「安全啓発センターへ行きたいですが」と告げました。すると程なく一人の男性がエレベーターで降りて来られ、二階の安全啓発センターに案内されました。迎えに出て頂いたのは、安全推進本部 安全啓発センター長の金崎さんで、部屋には安全推進本部 副本部長の酒井さんが待っておられました。
 実は、事前に電話で見学を申し込んだ際、受付けの女性から、「11日から13日はご遺族様専用となっております」と断られました。私は「島根県出雲市の祝部幸正と申します。御巣鷹の帰りに見学をお願いさせて頂きたく、電話しました」と話しました。すると、しばらくして、「どうぞお越し下さい」と言って頂いた、経緯がありました。。
 金崎さんに説明頂いて展示室を見て回りました。先ず目に入ったのが垂直尾翼の残骸。金崎さんは垂直尾翼の前で「垂直尾翼には仕切り板がありますが、ご覧のように点検時人が通れる穴が開けてあります。垂直尾翼は強靭に造られていますが、内側からの圧力には弱く、後部圧力隔壁が破壊し、垂直尾翼が破壊されました」などと説明されました。パネルにはフライトレコーダーの記録が表示されており、事故機の飛行状況を説明されました。所々に映像モニターが設置されており、ビデオで事故時の状況、事故原因を説明するビデオが見れるようになっています。1時間近く掛けて、時々「ご存知かもしれませんが」とおっしゃりながら、展示品の説明をして頂きました。私は途中「最初に事故現場がテレビに写しだされた、あの主翼はどうされましたか」と尋ねました。金崎さんは「あれは事故原因調査に必要が無いということで、廃棄されました」と説明されました。「よかったら前の会議室でお話を」と小さい会議室に案内されました。
 会議室では金崎さん、酒井さんともう一人、ご被災者相談室長さんの三人で対応をして頂きました。20分間程懇談をし、時計も12時半近くになって来ましたので失礼することにしました。三人で玄関までお見送り頂いて恐縮しました。お礼を言って啓発センターを後にしました。モノレールで羽田空港第1ビルへ。昼食をとって、カウンターで搭乗手続きを済ませ搭乗口へ。14時10分のJAL1667便で出雲へ帰りました。大社の家には16時15分に帰宅しました。2泊3日の御巣鷹への旅は終わりました。この旅の出来事は一生忘れることはないでしょう。


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