2012年2月2日 8・12連絡会ホームページより |
123便事故遺族として心から感謝申し上げます 8・12連絡会 |
平成24年1月22日に執り行われた黒沢丈夫元村長(昨年12月22日に97歳で死去)の、村と黒沢家の合同葬儀・告別式に参列いたしました。
式場に入ると、まず飛び込んできたのは、私たちをいつも守ってくれていたあのやさしいまなざしの黒沢丈夫さんの写真でした。
葬儀・告別式には、上野村の皆様はじめ、福田元総理や自衛隊幹部の方、日本航空など、580人が列席。葬儀委員長の神田強平村長は「あまりにも大きな柱を失った村民は、途方に暮れ、悲しみの中にいます。黒沢さんが常にとなえていた共助の精神を忘れることなく、これからも誇りある村づくりに励んでいきます」と式辞を述べられました。
8・12連絡会事務局や慰霊の園理事などの123便事故の遺族は、関西からも駆け付け10人を超えました。
事故当時から上野村は、山深い交通の不便な場所にありながら、多くの関係諸機関のとりまとめをして、慰霊の園を作り、御巣鷹の尾根を聖地として末永く慰霊して下さっています。
ここに、日航123便事故以来長い年月、犠牲者の私たち家族に寄り添ってくださった黒沢元村長に心からお礼を申し上げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
明治32年に出来た法律で、「行路病人及び行路死亡人取り扱い法」という法律があります。これは、一人か二人の行路の死亡者を想定した法律ですが、この法律はその後も改定されることなく、27年前の520人が亡くなった日航機の事故にも適用されました。123便事故(全ご遺体が確認された192人を除く)のご遺体部分は、上野村で永代供養をする義務が生じました。
そこで、黒沢村長は日航他関係機関との調整をし、基金を集め、全日空の雫石事故などを参考にして、財団法人「慰霊の園」を作りました。また、事故直後から、高齢の遺族が、険しい山道を事故現場まで慰霊登山していく後姿を見、関係機関と調整し、山の国有林であり保有林である御巣鷹の尾根に道を作りました。
また、私たち遺族にとって共通で、最大の願いである「御巣鷹を安全の原点として末永く発信していくための礎」を作り、社会の安全を願う聖地として誓いの場としました。
【123便事故遺族として心から感謝申し上げます】
御巣鷹の尾根のふもとにある上野村の人々には、事故以来、言葉では言い尽くせないほどお世話になってきました。黒沢さんの遺影に向かった時、事故の翌年、1986年8月3日 「慰霊の園」の理事長である黒沢丈夫村長(当時)の式辞が思い出されました。
「昨年12月、遺骨を迎えてから、どのように御霊を奉り、慰め、供養するべきかを思い巡らせ、その式典を挙行する準備を進めてきた。上野村の天地は、人も山も川もこの一年喪に服する心でひたすら皆様の御霊を奉り慰める道を考え、ここに慰霊の園を建設した。(中略)ここを大事故を起こさないための戒めの天地とし、伝えつづけ、村民の皆さんが、他人に尽くすという事の大切さを心得、受け継ぎ使命を果たしてくださると思っている」とありました。
黒沢さんは、元海軍少佐。開戦とともにゼロ戦に乗り、インドネシア、シンガポールなどを転戦。マニラ上空で、燃料タンクを切り離す際に酸素マスクが外れ、死にかけた経験もあります。
2005年6月の村長退任の日、8・12連絡会は、花束を持って上野村を訪れました。その時、黒沢さんは、「安全問題への関心を、国民にさらに高めていきたい。そのためにも慰霊の園は、村や日航任せではいけない。国としての関与も必要。村として、霊を祭り、慰め、事故を戒め、ここから交通安全を発信したい」と話されました。
2012年1月22日、葬儀に参列しました。羅針盤をなくしたようで、不安と寂しさが募りました。しかし、123便事故遺族の私たちは、黒沢さんに心から感謝致すと共に今後も、御巣鷹から安全の警鐘を鳴らし続けていきますのでお守りくださいと遺影に語りかけました。
8・12連絡会