サイト管理人のページ 

プロフィール はこちらクリック

サイト管理人からのお知らせや見解など


 2014年1月12日 管理人
 PET- CT ご存知ですか

 今年の8月12日は「癌との闘いの中で迎える」事になりそうです。そして来年の「30周年」まで寿命が持ちますよう、頑張ってまいります。それを一つの区切りにしたいと思っているこの頃です。

 この度の一連の診察を受ける中で放射線治療と抗癌剤治療と合わせ「手術」の結論に至ったわけですが、先生から「PET-CTを知っておられますか」と言われました。知らなかったので説明書を見ますと「ある種の糖類を与えると癌細胞が活発になる性質を利用して初期の癌発見が出来る」とありました。
 先生の説明ではこのPET-CTがある医療機関は県下で3箇所しかないという事ででした。先生は手術の前に念のため、このPET-CTを受けておくよう言われ、紹介状を書いて下さいました。PET-CTの結果は異状なしでした。関心のある方は一度調べておかれたら良いと思います。
 2014年1月3日 管理人
 「サービス付き高齢者向け住宅」でサイトの更新、新年を迎え

早いもので最初の入院から半年が過ぎました。肺炎は次第に治まり、年の瀬も押し迫ってくる中で退院の日が決まりました。

 肺炎の原因として指摘されたのが、食べ物を通じて肺炎が発症しているという事でした。そのため胃瘻の手術を受け、食事は絶食とし、栄養剤を胃に直接入れる生活になっていました。そのため退院と言っても自宅に帰れるのではなく、看護師による介助が可能な施設に入所する事になりました。

 事故から29年になる今年の正月は初めて自宅や職場ではなく、サービス付き高齢者向け住宅」で一人で迎えました。年末を控え、12月25日、島根県立中央病院を「退院」、こちらでお世話になる事になりました。

 この「住宅」ではパソコン(インターネット)が自室で自由に使えるため、ホームページの閲覧はもとより、更新も出来ます。
 2013年8月12日 管理人
 呼吸器外科、一時退院で駅売り新聞を求めサイトの更新

 5月31日に手術が決まりました。と言っても「癌」を取り除く手術ではなく、喉を切除して、癌細胞(組織)を取り出し、より詳しい検査を行うための手術です。
 手術の後は放射線照射と抗癌剤(飲み薬)による治療が続きました。「手術」の結果、病名は「原発不明縦隔扁平上皮癌」であることが明らかになりました。

 癌治療は順調に進むかに見えましたが、発熱に見舞われ、原因は肺炎であると診断、癌治療は中断、肺炎治療に重点がおかれ、入院は長くなりました。そうしているうちに8月12日が近づきました。幸い熱も下がったため外泊許可をとり、帰宅しました。8月12日の新聞は休み、13日朝、出雲市駅に新聞を買い求めに走りました。こうして今年の更新を済ませることが出来ました。

 そして肺炎治療のために再度入院が続きました。更に悪いことに肺炎を繰り返し、肺炎治療のための入退院を繰り返すことになったのです
 2013年7月31日 管理人
 呼吸器外科で手術、病名は 「上縦隔上皮癌?」 入院生活

 呼吸器外科では、胸X線、CT、MR、気管支ファイバー,食道ファイバー検査・・・、検査の連続。I主治医は小坂部長先生。先生は疑われる病名を説明されました。小坂先生は「胸には病変は見られない」、病名は「食道癌の疑い、肺癌の疑い、癌発不明癌、縦隔リンパ節転移」とその時点でははっきりしないものでした。

 先生は「食道の周囲に悪性腫瘍があり、それを取り除くためには食道を全て切除しなくてはならないため、大掛かりな手術となりリスクもあるので私としては勧められない」と言われ、「放射線療法と抗癌剤で治療します」と言われました。
 2013年4月30日 管理人
 県立中央病院でCT、 細胞腫検査で「癌」の疑い・・・

 4月15日、島根県立中央病院・耳鼻咽喉科を受診、ここではCT検査を受けて、後日検査結果の説明を受けることにして帰りました。
 しかし、その夜、耳鼻咽喉科・木村医師から電話があり、「検査結果を後日話すことにしていましたが、CT画像を見たところ、影があり再度検査をする必要がありますので、再度検査に来て下さい」と言うものでした。その時「ガン」という言葉が頭をよぎりました。

 咽の部分に「長い注射針」をエコー画像を見ながら患部に刺していき、患部の細胞を取り出して「良性か悪性か」の診断を行うもので、若い女医さんでしたが、注射より痛くない検査でした。

 木村医師は「組織検査の結果はガンです。悪い事を言ってごめんなさい」と申し訳なさそうに説明をされ、以降は呼吸器外科で診療を受けることになりました。
 2013年3月30日 管理人
 間もなく、事故から28年、あと2年は頑張らなくては・・・

 去る3月8日、知人の葬儀に会葬した際、「初期癌の発見で助かった」が話題となり、私は「60歳を過ぎると何が起きるか分かりません」と話していました。その時私には何か病気を疑うような症状はありませんでしたから。しかし、私の体内では、2人に1人が罹ると言われる「癌」におかされていたのです。
 当時、気になる症状としては「声がかすれる」ことくらいで、痛みなどを感じるような「自覚症状」はありませんでした。しかし、「何が起きるか分からない」状態だったのです。

 3月30日、町内の耳鼻咽喉科で診察を受けることにしました。3月初め、家で食事中に咽に何か引っかかったような気がし、大きく咳き込んだことがあり、それ以来「声がかすれる」ようになっていました。私は「声帯に傷がついた」くらいに思い受診をしたのです。先生は「声帯の片方が動きが悪くなっています。声帯に来ている神経に問題があるかもしれません。うちでは、これ以上の検査が出来ませんから」と島根県立中央病院、耳鼻咽喉科宛に紹介状を書き、予約を取って下さいました。

 このサイトを立ち上げて今年は13年。事故から30年目の夏までは何としても頑張らなくてはなりません。そんな夏が半年後に控えている弥生3月でした。
 毎日新聞 2013年08月10日 地方版
 日航機墜落:発生から28年 新聞見出しで事故たどる ずっと忘れない、風化しないように 出雲の祝部さん、サイト開設 /島根

 520人が犠牲となった1985年の日航ジャンボ機墜落事故は12日で発生から28年。奇跡的に救出された川上慶子さんの父と友人だった出雲市大社町の祝部(ほうり)幸正さん(69)は、薄れ行く事故の記憶を今に伝えようと、関連する新聞記事の見出しの記録を続け、ウェブサイトで公開している。

 事故では、川上慶子さんの父英治さん(当時41歳)、母和子さん(同39歳)、妹の咲子さん(同7歳)が犠牲になった。祝部さんは、機影がレーダーから消えたことを伝えるテロップがテレビに流れた直後に、知人からの電話で川上さんらが搭乗していたことを知った。慶子さんが救出される場面を映したテレビの中継映像は、待機していた川上さんの自宅で見た。

 事故から少し落ち着いた頃、家にたまっていた新聞記事のスクラップを始めた。「事故の記録を何らかの形で残したい」。インターネットが普及する前は、冊子を作ろうと見出しをワープロで打ち出した。ネットが普及したことから冊子は作らずウェブサイトにした。15年後の00年、ウェブサイト「日航機墜落事故 東京−大阪123便 新聞見出しに見る15年間の記録(現在は『25年間の記録』)」を開設。見出しは事故翌日の新聞から始まり、報道自体が少なくなっている今も、積み重ねられている。

 これまでのアクセス数は550万件以上。設置した掲示板には「慰霊登山に訪れたい」など今も多くの投稿がある。祝部さんにも8月上旬、「遺族ではないけれど、ずっとずっとこの事故を忘れないし、風化しないことを望んでいます」とのメールが送られるなど反響は続いている。

 あの夏から28年。記憶は薄れ行き、事故を直接知らない世代も多い。祝部さんは「時間が過ぎれば忘れてしまうのは、ある意味仕方がないかもしれない。でも、一人でも多くの人に事故があったことを知ってもらいたい」と話している。

 ウェブサイトのURLはhttp://www.goennet.ne.jp/〜hohri/n−index.htm【金志尚】

 2013年3月15日 管理人
 「おすたか97号」が届きました

 きょう、8・12連絡会から「おすたか97号(3月12日)」が届きました。いつもながら、ご苦労に感謝します。

 ここに目次を紹介しておきます。
P4~6   ボーイング787トラブルの記事
P7~9   日本航空87便事故とその後の後部圧力隔壁交換について
P10     LCC記事
P11~17 空の規制緩和についてアンケート集計結果
P18~19 高速バス事故記事
P19~23 笹子トンネル崩落事故記事
P24     原発事故記事
P25~26 明石歩道橋事故判決記事
P27     JR福知山線脱線事故裁判記事
P28~45 2012年夏の慰霊行事記事
P46     2012年9月19日日航再上場記事
P48~49 心で学ぶ事故の教訓記事
P50     8・12連絡会へのお便り
P51     宮城県石巻市大川小検証委員会記事
P52     福島原発被災者支援へのお願い
P52     事務局便り
 日本経済新聞 速報>社会>記事 2013/3/15 11:40
 日航機墜落書籍、著作権を侵害 地裁が出版差し止め命令

 日航ジャンボ機墜落事故をめぐる著作の表現が自らの作品と似ているとして、遺族の池田知加恵さん(80)=大阪府=が、ノンフィクション作家の門田隆将さんと発行元の集英社に出版の差し止めなどを求めた訴訟の判決で、東京地裁は14日、著作権侵害を認め、差し止めや書籍の廃棄、慰謝料など約58万円の支払いを命じた。
 問題となったのは2010年発行の門田さんの著作「風にそよぐ墓標」。池田さんは事故で夫を亡くした体験を著作「雪解けの尾根」として1996年に出版していた。
 高野輝久裁判長は17カ所の記述に「池田さんの表現の特徴と同一性がある」と指摘。「池田さんは壮絶な体験をした遺族感情を著述しており、著作権侵害で精神的苦痛を受けた」と判断した。
 門田さんは「本人に確認取材し、参考文献としても明記した。あきれた判決だ」とコメントし、即日控訴した。〔共同〕

 2013年2月12日 管理人
 御巣鷹の冬 上毛新聞連載 2月8日~10日

 一瞬にして多くの命を奪った1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落は、ことしで発生から28年を迎える。毎年4月末に慰霊登山が解禁され、11月中旬に冬期閉山となる事故現場の「御巣鷹の尾根」。年間を通じて慰霊や事故と向き合う人々の姿を追い、普段は目にする機会の少ない閉山中の尾根や事故の「今」を伝える。(藤岡支局 落合慶祐)

 登山道覆う銀世界 雪と闘い尾根守る
 標高1500メートルを超える事故現場「御巣鷹の根」。12月から3月にかけて深い雪に覆われ、青々と木々が生い茂る平時の装いから銀世界へと姿を一変させる。降雪が多い時には1メートル近くに達することもある中で、変わることなく尾根を守り続ける人がいる。
 2006年から管理人を務める黒沢完一さん(69)=上野村楢原。2代目の管理人として尾根に足を運ぶ回数は年間100を超える。冬期閉山とはいえ、登山道の整備や清掃、休憩小屋の管理などの作業に余念がない。・・・以下略

 520人の追悼慰霊施設 休むことなく管理
 日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者520人の御霊を永代供養する追悼慰霊施設「慰霊の園」(上野村楢原)。事故が発生した翌年に建設され、毎年、命日に当たる8月12日には追悼慰霊行事が営まれる。事故現場の「御巣鷹の尾根」が閉山となる冬期、同施設へ慰霊に訪れる人も多い。
 「空の安全への思いを世界中に発信し続ける。慰霊の園はそういう場所なんです」
 慰霊塔周辺の除雪作業を行っていた管理人の滝上臣秀さん(71)はこう話す。現在遺族らでつくる財団法人「慰霊の園」(理事長・神田強平村長)から委託を受けた60~80代の4人が交代で管理している。・・・以下略

 慰霊登山支えるつえ 遺族の心に寄り添う
 日航ジャンボ機墜落事故の現場「御巣鷹の尾根」が冬期閉山となる中、事故と向き合い、4月末の慰霊登山解禁に向けて準備を進める人々がいる。
 1月下旬、藤岡市内の河川敷。慰霊登山に訪れる遺族のために手作りのつえを毎年贈り続ける本多一助さん(72)=同市上大塚=は、知人の中里一郎さん(65)=同市岡之郷=とともにニセアカシアの木を探していた。
 つえ作りは冬場の素材探しから始まる。2人は市内外の河川敷などに足を運び、2、3カ月かけて素材を運び出すという。・・・以下略
 2012年9月26日 管理人
 尾根のかなたに ~父と息子の日航機墜落事故~ WOWOWで

 WOWOWプライムで「尾根のかなたに ~父と息子の日航機墜落事故~」が10月に放映されます。
 放映は前編が7日(日)、後編が14日(日)、いずれも夜10時から。
 再放送は前編が14日(日)午後2時30分、後編が21日(日)昼12時から。

 イントロダクション
 1985年8月12日。日本航空123便が墜落、乗員乗客520名の犠牲者を出した。この事故で親を失った息子たちを中心に、絶望から這い上がった3つの家族の27年を前・後編で描くスペシャルドラマをお届けする。原作は「なぜ君は絶望と闘えたのか」の著者・門田隆将によるノンフィクション。原作をもとにフィクションで描いていく。 ドラマW初登場の伊勢谷友介ら、豪華キャストに加え、監督に映画『沈まぬ太陽』の若松節朗を、脚本に連続テレビ小説「おひさま」の岡田惠和を迎え、実力派スタッフ・キャストがタッグを組んでお届けする。父が最期に記した遺書の意味を考え続ける息子、父の死後、孤独から逃れられなくなる息子、父の遺志を継いで自分の使命を考え続ける息子…。父親を失うという絶望と闘い続けた少年たちが、27年の時を経て自分が父親になった時に気づく「生きてきた証」と「父と子の絆」を描く感動のヒューマンドラマ。
 2012年9月19日 NHKN NEWS WEB 
 日本航空 東証に株式を再上場

おととし経営が破たんし国の支援を受けながら再建を進めてきた日本航空は、19日、東京証券取引所に株式を再び上場し、国の支援の下での経営再建を終えて独立した民間企業として再スタートをきりました。

日本航空は、19日、東京証券取引所第1部に株式を再上場し、午前9時から取り引きが始まりました。
日本航空の株式は、取り引き開始直後に、売り出し価格を20円上回る1株3810円で最初の値がつきました。
その後、株価は一時、3900円を超える水準まで値上がりしましたが、午前は3830円で取り引きを終えました。
再上場では6000億円を超える資金が調達され、その全額が国などが設立した「企業再生支援機構」からの出資金の返済や国庫への納付金などに充てられることになっています。
日本航空は、おととし1月、事業会社として国内最大のおよそ2兆3000億円の負債を抱えて経営が破たんし、会社更生法の適用を裁判所に申請しました。
そして「支援機構」から3500億円の出資を受けるとともに、赤字路線からの撤退や1万6000人に上る人員削減などを行って経営の再建を進めた結果、昨年度の決算では2000億円を超える過去最高の営業利益を達成しました。
日本航空は、独立した民間企業として再スタートしましたが、激しさが増す航空業界の競争のなかで安定的な経営を図り、国民にどう利益を還元できるのか公的資金を使って再生した企業として大きな課題を背負っています。
                                    9月19日 12時25分

 2012年9月19日 YOMIURI ONLINE
 日本航空が再上場、初値は3810円

 日本航空は19日、2010年2月の上場廃止以来、約2年7か月ぶりに東証1部へ再上場した。

 初値は3810円となり、売り出し価格(3790円)を20円上回った。初値から計算した時価総額は約6909億円だった。2010年4月の第一生命保険以来、久々の大型上場で、今年最大となる。
                             最終更新:9月19日(水)9時13分
 2012年9月5日 管理人
 今夜、NHK、復興支援ソング「花は咲く」スペシャル

 今夜8時からNHKテレビで、「花は咲く」スペシャルの放送がありました。
 このホームページに、「東日本大震災復興支援のページ」を設けています。そのきっかけの一つは、昨年の8月11日、上野村の灯篭流しに、福島県から群馬県に避難しておられる人が参加されていた事、そしてもう一つが、この「花は咲く」です。私は健康上からも外出が少なく、テレビを見る時間が多いのですが、そうした中、NHKテレビで流れる歌、「花は咲く」。
 「どこかもの悲しい、だけど未来が見える」、そう思いながら視聴していました。しかし、NHKテレビで流される歌は、複数の人が歌い継ぎ、部分的で通しの歌を聴く機会は余りありません。
 「どんな歌なんだろう」と知りたくなり、NHKのホームページを見ました。NHKのページはコピー&ペーストすることが出来ません。そこでノートに一度書き写し、それを「東日本大震災復興支援のページ」に打ち込みました。
 このページには支援金、郵便振替口座を書きました。テレビでは長い時間表示されず、ホームページに載せれば記録して頂けると考えたからです。
 何も出来ない私のせめてもの行為だと思っての事です。NHK「花は咲く」スペシャル、辻井伸行さんのピアノ演奏も良かったです。どこか涙が滲みました。
 2012年8月12日(日)10時45分配信 時事通信
 「いつまでも来たい」=遺族ら遺族ら慰霊登山―
日航機墜落27年

 520人の犠牲者を出した1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故から12日で27年を迎えた。遺族らは、墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」を目指し、慰霊登山をした。
 登山口から尾根に立つ「昇魂之碑」までは距離800メートル、高低差180メートルの険しい道のりで、急斜面には犠牲者の名前を記した墓標がいくつも立ち並ぶ。遺族はそれぞれ、墓標の前で愛する人と向き合った後、午前10時半に昇魂之碑の前に集まり、「安全の鐘」を突いて、犠牲者の冥福と空の安全を祈った。
 「ここに来たときだけ、私の隣にいるような気がするんです」。大阪府河内長野市の泉谷明造さん(78)は、長女の淳子さん=当時(20)=を亡くした。毎年、8月12日のほかに5月半ばと10月半ばにも慰霊登山をしており、今回で70回目になる。「早いような遅いような。歩けるうちはいつまでも来たい」と話した。
 愛媛県今治市から来た越智豊さん(53)は数年ぶりの慰霊登山。事故では姉の良子さん=当時(28)=が犠牲になった。「父が亡くなったことや、私に初孫ができたことを報告しようと思って」と墓標に祈りをささげた。「二度と起こしてはいけない事故。われわれが言葉で伝えるしかない」と語気を強めた。
 日本航空によると、正午現在で49家族222人が慰霊登山をした。午後には、植木義晴日航社長や大沢正明群馬県知事も登り、午後6時からは、ふもとの「慰霊の園」で、追悼慰霊式とろうそく供養が営まれる。 
  2012年8月11日(土) 19時49分配信 産経新聞
 「あの事故を忘れない」燈籠流し…犠牲者しのぶ 
日航機墜落から27年

 520人が犠牲になった昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で27年を迎える。墜落現場となった群馬県上野村の神流川で11日夜、遺族らが灯籠流しを行い、犠牲者をしのんだ。

 東日本大震災や4月に関越自動車道で起きた高速ツアーバス事故の犠牲者を悼む灯籠も用意された。雨降る中、遺族らは「あの事故を忘れない」などと記した灯籠約300個を次々に川面に浮かべた。

 墜落事故で父、孝之さん=当時(29)=を亡くした大阪府豊中市の会社員、小沢秀明さん(26)は「語り継ぐことで災害や事故を防ぐ『安全第一』の意識が広がってほしい」と期待を込めた。12日には、遺族らが墜落現場の「御巣鷹(おすたか)の尾根」に慰霊登山する。
 2012年8月8日 YOMIURI ONLINE 地域>島根
 見出しで刻む日航機事故 「風化させない」出雲の祝部さん

◇知人犠牲・・・新聞記録HPに

 乗客乗員520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から12日で27年。犠牲になった旧大社町議の川上英治さん(当時41歳)を知る元同町議、祝部(ほうり)幸正さん(68)(出雲市大社町)が、発生直後から現在までの27年間に新聞掲載された事故関連記事の見出しをホームページ(HP)で紹介している。病気で体が思うように動かないが、「事故を風化させない」と、パソコンに向かい続けている。(佐藤祐理)

 川上さんは家族4人で北海道旅行の帰りに事故に遭遇。川上さんと、看護師の妻和子さん(当時39歳)、誕生日を迎えたばかりの小学1年の次女咲子さん(同7歳)が命を落とした。助かったのは中学2年の長女慶子さん(39)だけだった。

 当時、祝部さんには慶子さんと年齢が近い子どもたちがおり、夕食中に事故を知り、すぐに川上さん宅に向かった。母親のキミエさんが気丈に振る舞い、慶子さんが助かったことを知ると、赤飯を出してくれたという。

 祝部さんは事故を記録に残そうと、事故に関する新聞記事を集めてスクラップ。見出しや日付をワープロに打ち込み続けた。しかし、月日がたつにつれて世の中の関心が薄れていくことを痛感し、2000年にHPを開設した。

 ワープロ打ちしてきたデータを生かし、画面のカレンダーの日付をクリックすると、その日掲載された記事の見出しを閲覧できるようにした。「日航機墜落 羽田発大阪行きジャンボ 長野の山中で炎上」という1985年8月13日の記事に始まり、事故当時の群馬県上野村の村長が死去したという2011年12月末の記事まで載せている。

 祝部さんは、慶子さんや自宅で留守番をしていて無事だった長男の千春さん(41)が、家族を持ってそれぞれの道を歩んでいることを考えると、「事故にはもう触れない方が良いのでは」と思うこともあるという。

 しかし、8月12日前後の記念行事しか話題にならない現状を見ていると、事故を風化させてはならないという思いにかられるという。昨年、病気で両足の感覚がなくなった。それでも、リハビリに励みながら、関連記事などを探している。「事故から30年の節目までは続けたい。事故の後に生まれた世代にも、惨事を知ってもらい、空の安全の一助にしてほしい」と願っている。

 HPは(http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n‐index.htm)。

2012年8月8日 読売新聞)

 2012年8月8日 管理人
 NTT光が我が家にやってきました、「快適インターネット」に

 私はホームページ開設以来、これまで12年間、町が運営する、有線放送電話でインターネットをやって来ました。パソコンも9年と古くなり、動きが遅くなってきていました。
 そこで、思い切って、NTTの光ケーブルに変える事にしました。そして、きょう光の工事が行われました。オリジナル仕様のFMV-パソコン3台と多機能プリンタ(スキャナ)も新しくなり、無線LANでネットワークを構成する事が出来ました。
 午後には、町のプロバイダー「ご縁ネット」の職員さんが来て下さり、NTT光OUN、無線LAN、パソコンやプリンタの設定、ホームページ作成ソフトのインストールなど全てをやって下さり、しかも無料で、大変助かりました。
 これまでは通信速度が33Kb、それが200Mbと「月とスッポン」、「飛躍的」違い、これまで写真の多いページやデジカメの写真をアップしたページを開くことが出来ませんでしたが、これからは「楽々」です。もちろん動画サイトもOKです。
 これまで、NTT光にしなかった大きな理由は、「プロバイダーが変わると、立ち上げているホームページのURL(アドレス)が変わってしまう」からです。
 でも、NTT光で、町のプロバイダー(ご縁ネット)が使えるようになったのです。これからも当サイトをよろしくお願いします。
 2012年7月12日 管理人
 おすたか96号が届きました

 きょう、8・12連絡会から「おすたか96号」が届きました。
 今年の追悼・慰霊行事の予定が掲載されています。
 2012年6月20日 テレビ朝日
 JAL早くも上場申請「競争条件に格差」ANAは懸念

 経営再建中の日本航空が、東京証券取引所に株式上場の申請をしました。9月にも再上場します。
 日本航空は20日、開いた株主総会の後に、東証第1部に上場申請しました。9月中旬にも再上場する見通しで、上場廃止から2年7カ月という異例の早さで株式市場に復帰し、国有化から脱却します。一昨年、経営破綻した日航は、不採算路線の撤退などリストラで業績を急回復させました。ただ、金融機関の債権放棄や法人税の免除など公的な支援に支えられている部分もあります。業績はライバルの全日空を大きく上回っていて、全日空は日航に与えられたメリットをけん制し、「競争条件に格差がある」と懸念を示しています。
 2012年5月1日 管理人
 また「墓石安全論」 群馬・藤岡市での関越道バス事故

 4月29日午前4時40分ごろ、群馬県藤岡市の関越自動車道藤岡JCT付近で、高速ツアーバスが防音壁に衝突、7人が死亡39人が重軽傷という、重大事故が発生しました。群馬県警はきょう運転手を自動車運転過失致死傷罪容疑で逮捕しました。この事故は果たして「運転手の過失」で済まされる問題でしょうか。
 2000年、道路運送方が「改正」され、参入規制が免許制に緩和され、貸し切りバス事業者は、ここ10年間でほぼ倍増し、過当競争で零細業者の経営基盤は劣悪となり、そのしわ寄せが今回の一人乗務につながったと言えます。
 国土交通省は「1日9時間勤務で、670㌔まで一人乗務」と規定しています。マイカーでも670㌔(東京から岡山)を一人で走ることは至難の業と言えます。お客さんを乗せて走る、休憩はままなりません。まして夜間の運転です。
 「逮捕」されるべきは、規制緩和を図った「政治家」ではないでしょうか。国土交通省は「指針の見直しを行なう」としていますが、死者が出ないと安全対策がとられない、「墓石安全論」はこれくらいにしてもらいたいものです。
 群馬県藤岡市での事故、他人事とは思えず、「筆」をとりました。(管理人)
 2012年4月29日 YOMIURI ONLINE 読売新聞 群馬
 日航が350万円慰霊の園に寄付

 520人が犠牲になった日航機墜落事故の慰霊行事を行っている財団法人「慰霊の園」(理事長・神田強平村長)の理事会が28日、村役場で理事7人が出席し開かれた。日本航空からは大西賢会長が出席、2011年度の収支報告で、日航が350万円の寄付を行うことが報告され、12年度に1100万円が繰り越された。12年度の慰霊登山など事業計画について、日航側から「引き続き応分の寄付をしていく」との説明があった。
                      (2012年4月29日  読売新聞)
 2012年4月14日 管理人
 「おすたか 95号」(4月12日発行)が届きました

 日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故被災者家族の会(8・12連絡会)機関紙、「おすたか95号」(2012年4月12日発行)が届きました。

ページの最後(71頁)、「事務局便り」の一文を掲載しておきます。
 日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故から26年、昨年の8月11日に、群馬県上野村で恒例の灯篭流しが行なわれた。墜落現場の御巣鷹の尾根のふもとに流れる神流川には、遺族の他、福島県から群馬県に避難する東日本大震災の被災者9名も参加。
 また、遺族の要望を受け、事故調査報告書の解説書を作成した運輸安全委員会から事務局長ら4人が初めて参加。犠牲者を悼み、空の安全を願いました。

「解説書」は当サイトのリンクのページからアクセスできます。
 2012年4月1日 管理人
 NHK総合 あさイチで遺族・能仁怜子さんが取り上げられました

 NHK総合の「あさイチ(月~金 朝8時15分~)」で3月22日(木)に、日航機事故で、三女の千延子さん(享年22歳)を亡くされた能仁怜子さん(81歳)が「桜ものがたり」のタイトルで取り上げられました。以下に紹介しておきます。

 震災以降、桜を植樹する人が増えています。寒い冬を耐え、花を開かせる桜に亡き人への思いを重ねる人が少なくないからです。滋賀県大津市にある石山寺もそんな桜の名所の一つ。そこに、いち早く春の訪れを知らせる520本の早咲きの桜があります。
 この桜を植えたのは日航機墜落事故で三女の千延子さん(享年22歳)を亡くした徳島県に住む能仁怜子さん(81歳)です。やり場のない悲しみから立ち直れずにいた能仁さんは、散っては咲く桜に「永遠」を感じ、桜の植樹を思い立ったのでした。植樹場所に選んだのは石山寺。次女の博子さんの嫁ぎ先です。
 能仁さんは事故の翌年から3年かけて犠牲者と同じ数だけ苗木を植えました。以来、桜の成長を楽しみにしてきた能仁さん。今も悲しみは消えませんが、数年前から美しい花を咲かせる桜に、心癒やされるようになりました。
 番組では、能仁さんの四半世紀を振り返るとともに、愛する人を突然失った人たちの桜に込める思いに迫りました。

問合せ先
「石山寺」
住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1
ホームページ : http://www.ishiyamadera.or.jp/

 2012年2月8日 管理人
 当サイトへのアクセス数の推移を集計してみました

 アクセス統計を取り始めた2002年から、毎年アクセス数の多くなる、7月と8月のアクセス数を合計した数を集計してしてみました。最高は事故から20年目に当たる2005年の274,348件、最少は昨年の42,390件でした。

10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
2002        55,797
2003        62,456
2004         69,667
2005 274,348
2006 162,509
2007 95,017
2008 164,370
2009 102,086
2010 162,312
2011 42,390
 2012年2月3日 管理人
 今月から要支援2になりました、リハビリ先で当サイトの欠点発見

 昨年8月、「要介護1」の認定を受け、高鳥クリニックにリハビリに通っていましたが、その甲斐あって、要支援2に改善されました。これからは斐川町の〝MILK富〟に週2日(半日)通ってリハビリを続けます。
 サイトの管理運営に支障はありません。これからもよろしくお願いします。

 余談ですが、高鳥クリニックではインターネット環境が整備されており、大きなディスプレー(モニター)のパソコンが無線ランで接続、置いてありました。そのパソコンでこのサイトを見てびっくり。ページによっては表が横に大きく伸びて、読み辛いものになっていることに気付きました。私はノートパソコンで、小さいモニターで見ていたので問題を発見することが出来なかったのです。家に帰って早々に修正しました。これまで見辛い画面で我慢して下さった皆さん、ごめんなさい。
 2012年2月2日   8・12連絡会ホームページより
 123便事故遺族として心から感謝申し上げます   8・12連絡会

 平成24年1月22日に執り行われた黒沢丈夫元村長(昨年12月22日に97歳で死去)の、村と黒沢家の合同葬儀・告別式に参列いたしました。
 式場に入ると、まず飛び込んできたのは、私たちをいつも守ってくれていたあのやさしいまなざしの黒沢丈夫さんの写真でした。
 葬儀・告別式には、上野村の皆様はじめ、福田元総理や自衛隊幹部の方、日本航空など、580人が列席。葬儀委員長の神田強平村長は「あまりにも大きな柱を失った村民は、途方に暮れ、悲しみの中にいます。黒沢さんが常にとなえていた共助の精神を忘れることなく、これからも誇りある村づくりに励んでいきます」と式辞を述べられました。
8・12連絡会事務局や慰霊の園理事などの123便事故の遺族は、関西からも駆け付け10人を超えました。
 事故当時から上野村は、山深い交通の不便な場所にありながら、多くの関係諸機関のとりまとめをして、慰霊の園を作り、御巣鷹の尾根を聖地として末永く慰霊して下さっています。
 ここに、日航123便事故以来長い年月、犠牲者の私たち家族に寄り添ってくださった黒沢元村長に心からお礼を申し上げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 明治32年に出来た法律で、「行路病人及び行路死亡人取り扱い法」という法律があります。これは、一人か二人の行路の死亡者を想定した法律ですが、この法律はその後も改定されることなく、27年前の520人が亡くなった日航機の事故にも適用されました。123便事故(全ご遺体が確認された192人を除く)のご遺体部分は、上野村で永代供養をする義務が生じました。
 そこで、黒沢村長は日航他関係機関との調整をし、基金を集め、全日空の雫石事故などを参考にして、財団法人「慰霊の園」を作りました。また、事故直後から、高齢の遺族が、険しい山道を事故現場まで慰霊登山していく後姿を見、関係機関と調整し、山の国有林であり保有林である御巣鷹の尾根に道を作りました。
 また、私たち遺族にとって共通で、最大の願いである「御巣鷹を安全の原点として末永く発信していくための礎」を作り、社会の安全を願う聖地として誓いの場としました。


【123便事故遺族として心から感謝申し上げます】

 御巣鷹の尾根のふもとにある上野村の人々には、事故以来、言葉では言い尽くせないほどお世話になってきました。黒沢さんの遺影に向かった時、事故の翌年、1986年8月3日 「慰霊の園」の理事長である黒沢丈夫村長(当時)の式辞が思い出されました。
「昨年12月、遺骨を迎えてから、どのように御霊を奉り、慰め、供養するべきかを思い巡らせ、その式典を挙行する準備を進めてきた。上野村の天地は、人も山も川もこの一年喪に服する心でひたすら皆様の御霊を奉り慰める道を考え、ここに慰霊の園を建設した。(中略)ここを大事故を起こさないための戒めの天地とし、伝えつづけ、村民の皆さんが、他人に尽くすという事の大切さを心得、受け継ぎ使命を果たしてくださると思っている」とありました。
黒沢さんは、元海軍少佐。開戦とともにゼロ戦に乗り、インドネシア、シンガポールなどを転戦。マニラ上空で、燃料タンクを切り離す際に酸素マスクが外れ、死にかけた経験もあります。
 2005年6月の村長退任の日、8・12連絡会は、花束を持って上野村を訪れました。その時、黒沢さんは、「安全問題への関心を、国民にさらに高めていきたい。そのためにも慰霊の園は、村や日航任せではいけない。国としての関与も必要。村として、霊を祭り、慰め、事故を戒め、ここから交通安全を発信したい」と話されました。
2012年1月22日、葬儀に参列しました。羅針盤をなくしたようで、不安と寂しさが募りました。しかし、123便事故遺族の私たちは、黒沢さんに心から感謝致すと共に今後も、御巣鷹から安全の警鐘を鳴らし続けていきますのでお守りくださいと遺影に語りかけました。
                                      8・12連絡会
 2012年1月22日 産経ニュース
 黒沢氏合同葬に580人 日航機墜落時の上野村長

 昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故で当時の群馬県上野村長として捜索活動を支援し、昨年12月に97歳で亡くなった黒沢丈夫氏の葬儀・告別式が22日、同村で開かれ、福田康夫元首相や大西賢日本航空社長ら約580人が参列した。村と黒沢家の合同葬として執り行われた。

 神田強平村長は式辞で「黒沢氏は正確な統率で救助、遺体確認に尽力した」と墜落事故を振り返った。大西社長は参列後、記者団に「大惨事の中で救助の陣頭指揮を執っていただいた。社の基盤である安全の大切さをこれからも発信し続けたい」と述べた。

 2012年1月23日 東京新聞
 黒沢元上野村長 葬儀・告別式 580人が最後の別れ

 昨年十二月二十二日に九十七歳で亡くなった元上野村長、黒沢丈夫さんの葬儀・告別式が二十二日、同村楢原の上野中学校体育館で営まれた。黒沢さんは一九八五年八月の日航ジャンボ機墜落事故の対応に陣頭指揮を執っただけに、事故の関係者ら計五百八十人が参列して惜しんだ。

 式では、葬儀委員長を務める神田強平村長が「事故では、救助や遺体確認業務に尽力し、ご遺族の心情を察して財団法人・慰霊の園を設立。ご遺族をはじめ多くの関係者に感動を与え、今も引き継がれている」と式辞を読み上げた。

 黒沢さんは事故の一回忌で「御巣鷹の尾根の惨状が目に浮かび、最愛の人を失って悲しみに暮れるご遺族の姿に悲涙が流れます。何たる悲惨、何たる無情」との式辞を朗読。その後も遺族たちに寄り添い、事故の風化防止に長年尽力してきた。

 妹を亡くした愛知県刈谷市の武田たかしさん(77)は参列できなかったが、黒沢さんと長年付き合いがあった。
 武田さんは「信念の強い人だった。一緒に食事をしたこともあるが、遺族にはよく気を使ってくれた。事故を風化させないためにも、もう少し長生きしてほしかった」と悔やんだ。

 2012年1月4日
 元上野村長黒澤丈夫様の合同葬について

 名誉村民である元上野村長黒澤丈夫様におかれましては、平成23年12月22日にご逝去されました
 ここに生前のご厚誼を深謝し 謹んでご通知申し上げます
 おって葬儀 告別式につきましては 黒澤家及び上野村の合同葬をもって 下記のとおり執り行います
 また 誠に勝手ながら 御香典 御供花 御供物の儀は固くご辞退申し上げます

                記
 1 日   時   平成24年1月22日(日) 午後2時より
 
 2 場   所   上野中学校体育館 (上野村楢原113)

駐車場は上野村運動公園施設(こちらから会場まで送迎を行います、約5分)
                            (以上、上野村ホームページより)

葬儀委員長は神田強平村長
上野村役場 〒370-1614 群馬県多野郡上野村大字川和11番地
         電話 0274-59-2111  FAX 0274-59-2470
 毎日新聞 2011年12月24日(土)10時47分配信
 黒沢丈夫さん死去:日航機墜落時の上野村長、悼む声相次ぐ

 10期40年にわたって上野村のかじ取り役を務めた黒沢丈夫元村長(97)が22日、富岡市内の病院で肺炎のため死去した。黒沢元村長は85年の日航ジャンボ機墜落事故後には、犠牲者を供養する財団法人「慰霊の園」設立に奔走するなど遺族支援に尽力した。事故から26年。大惨事を現場で体験した語り部がまた一人亡くなった。事故の遺族や村関係者からは死を悼む声が相次いだ。
 黒沢元村長の家族によると、黒沢元村長は13日に発熱し、19日に同市内の病院に入院。20日に心不全を起こし、22日午後6時52分に息を引き取った。
 墜落事故の遺族でつくる「8・12連絡会」の美谷島邦子事務局長は悲報を知り、「すごく寂しい。事故を風化させないように、いち早く慰霊の園を作ってくれた。私たち遺族のことも自分のことのように考えてくれて……。今も感謝の気持ちでいっぱいです」と死を惜しんだ。
 事故当時から遺族を支援してきたボランティア団体「ふじおか・おすたか・ふれあいの会」の坂上シゲヨ会長は、事故当時の黒沢元村長の働きぶりを知る一人。「決断力がある人だった。身元不明の遺骨の保管場所の確保など、陣頭指揮をとっていたのを思い出す」と振り返った。
 村役場職員として黒沢元村長の下で働いた神田強平村長は「村民の気持ちの支えのような人だった。時間がたつと心にぽっかり穴が開くだろう」と語った。【喜屋武真之介、畑広志】

黒沢家と上野村の合同告別式は1月22日午後2時から、上野村楢原113、上野村立上野中学校体育館で。葬儀委員長は神田強平村長。自宅は同村乙父629、喪主は慎輔(しんすけ)氏。
 2011年11月11日
 サイト管理人です

 サイト管理人の祝部(ほうり)幸正です。私は今年5月末に入院し7月末に退院しました。2ヵ月余りの入院の内、最初の1ヵ月は寝たきりの状態でしたので、リハビリで歩く練習から始めました。介護保険の認定を受け、現在も週に2日リハビリに通っています。退院が8月12日に間に合い、新聞を買い求めサイトを更新することが出来ました。
 事故から26年が経過し、当サイトへのアクセスも減少していますが、それでも1日に200人前後の方が訪問して下さいます。事故の風化を防ぐ一助になればと、引き続き頑張ってまいりますので、よろしくお願いします。
 掲示板はいたずら書きが多く一度廃止しましたが。再開することにしました。
 2011年3月1日 産経ニュース
 日航ジャンボ、41年の歴史に幕

「ジャンボ」の愛称で親しまれた日本航空のボーイング747の定期運航便ラストフライトの2機が1日午後、成田空港に到着した。日航のジャンボは1970年に就航し、世界で最も多い112機を導入したが、同日で経営再建のためのリストラですべて退役し、高度経済成長などを支えた41年の歴史に幕を閉じた。

 成田に到着したのは、国内線の那覇発の3098便、国際線のホノルル発75便。日航のジャンボ機は、ピーク時の94年から2001年には約80機が運航していた。しかし、原油高騰で燃費の悪さなどが日航の業績を圧迫する要因にもなった。昨年2月に会社更生法の適用を申請し、再建に向けたリストラの一環として全機の退役を決めた。

 日航によると、2日以降は臨時便などで使用する予定もなく、塗装を塗り替えた上で、海外の航空会社などにすべて売却されるという。

 2010年8月12日 日本航空機長組合
 「日本航空123便事故 25年目にあたって」

 単独機としては史上最大の犠牲者を出した1985年8月12日の日航123便事故から、私たちは、25年目の夏を迎えました。日本航空機長組合は、見解に先立ち、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々、ご遺族に心よりお見舞いを申し上げます。また当時、救出に立ち会った方々等、関係者すべてに深く御礼を申しあげたいと思います。

 123便事故後、機長職にあるものとしての自己反省と、単なる体制批判にとどまらず安全運航を維持するための積極的な行動が、事故後の日本航空再建には欠かせないとの決意のもと、機長組合は設立されました。運航の最終責任者たる機長としての社会的責任を果たし、安全運航への信頼を回復することが我々の活動の目的であることは、今も変わりません。

 また日本航空は、123便事故の残存物を保存するべきであるとのご遺族の希望や私たちの強い要望もあり、2006年に「安全啓発センター」を設立しました。事故を直接知らない世代の社員が多くなるなか、安全運航の重要性を再確認する場としています。

 機長組合はここに、25年目を迎え、改めて見解を発表することといたします。

「見解全文」については、当サイトのリンクのページ「日本航空機長組合」をご覧下さい。(サイト管理人)
 2010年8月11日 YOMIURI ONLINE 読売新聞 群馬
 黒沢丈夫元村長 「慰霊事業」は国の特別交付税で

 日航は6月、「慰霊の園」に500万円を寄付した。慰霊事業の継続は、経営再建の成否で左右されかねない。事故発生時を挟んで40年間、村長を務めた黒沢丈夫さん(96)は「日航が危なくなってきたのなら、国の特別交付税で山の整備とともに慰霊式典を行うべきだ。それが世界に発信され、『空の安全』を考えるきっかけになる」と訴える。
 2010年8月10日 毎日新聞
 日本航空:「慰霊の園」積立金600万円を返済

 ジャンボ機墜落事故で設立された財団法人・慰霊の園(群馬県上野村)の積立金から日本航空が登山道の整備費1200万円を借りていた問題で、日航は10日、600万円を返済した。残る600万円は7月に既に返済している。当初は今年度から3年で完済する予定だった。日航は「誤解を招きかねない状況があった」などと謝罪のコメントを出した。
 整備は09年に御巣鷹の尾根への登山道を改修した工事で、日航のほかに県と村が各400万円を負担した。日航は09年2月、「経営難で新たな事業の予算が組めない」などとして、積立金約5億円からの借用を慰霊の園理事会に提案、同3月に了承されていた。

 8月3日11時40分 毎日新聞
 <日航>慰霊道整備で御巣鷹積立金借用 経営難で1200万

 経営再建中の日本航空が、1985年のジャンボ機墜落事故で設立された財団法人慰霊の園(群馬県上野村)の積立金から、登山道の整備費負担分1200万円を借りていたことが分かった。積立金は日航の寄付や村民の浄財などで約5億円あり、利息を慰霊事業に充てていた。日航は「経営難で、現金を払う余裕がなかった」と説明し、今年度から3年で返済する予定。
 日航によると、1200万円は、墜落現場の御巣鷹の尾根に通じる慰霊登山道を昨年7月に県、村と整備した際の日航負担分で、寄付金とは別の特別な支出だったという。今年1月の経営破綻(はたん)前だったが、財団の理事会に取り崩しを提案し、了承された。借用書などはないという。日航は今年7月、このうち600万円を返済した。
 日航は86年に5億円、88年に3億円を積立金として寄付。09年度は600万円を寄付したが、今年度分の寄付はなく、11年度分として6月末、500万円を寄付している。

 7月13日11時47分配信 産経新聞
 前原国交相が慰霊登山へ 日航ジャンボ機事故25年目の8月12日

 前原誠司国土交通相は13日の閣議後会見で、日航ジャンボ機墜落事故から25年目となる8月12日に、墜落現場の「御巣鷹(おすたか)の尾根」(群馬県上野村)への慰霊登山に参加する意向を明らかにした。
 前原氏は「慰霊登山をさせていただき、(犠牲になった)520名のみたまに哀悼の意を表したい。25年という節目でもあり、所管大臣として(会社更生手続き中の)日航の再生を決断し、その途上でもある。ああいう事故が2度とあってはいけないという思いを交通事業者に共有してもらいたい」と述べた。
 群馬県と上野村が前原氏に参加を要請していた。日本航空によると、これまで首相や所管大臣が慰霊登山に参加した例はなく、前原氏が初めてとみられる。

 2010年7月8日 17:17(上野村HPより)
 御巣鷹の尾根登山道の通行止め解除について

 工事のため通行止めとなっておりました御巣鷹の尾根登山道は、次のとおり通行止め解除となりますのでお知らせいたします。
                  記
 解除日時 平成22年7月10日(土)
      午前9時から

 2010年6月25日 08:45(上野村HPより)
 御巣鷹の尾根登山道の通行止めについて

御巣鷹の尾根登山道について、土砂崩れのため、次のとおり通行止めとします。
 期間:平成22年6月25日から、1~2週間
 ※土砂崩れ箇所は、旧登山道駐車場から800m先、見返り峠付近の村道
 最終更新:6月8日 3時5分 読売新聞
 御巣鷹荒らし頻発、短冊や千羽鶴切り刻む

 日航ジャンボ機が墜落した群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」で今月3日、遺族らがメッセージを記した短冊と千羽鶴が切り刻まれているのが見つかるなど、「昇魂之碑」の周辺を荒らす行為が頻発していることがわかった。
 8月で事故から四半世紀を迎えるのを前に、遺族は心ない仕打ちに胸を痛めている。
 碑は、山中の日航機が墜落した地点に立ち、周囲には犠牲者の墓標が並ぶ。月命日の12日などには遺族らが多く訪れ、慰霊の言葉をつづった短冊を「鎮魂の鈴」とともに棒に結わえつける。今月3日朝、墓標に供えられた千羽鶴は風雨を避けるビニール袋が破られたうえ、ひもが何か所も切られて地面に散乱していた。短冊は、33枚が切り落とされていた。
 ふもとから週3回ほど通う管理人の黒沢完一さん(67)によると、心ないいたずらは2007年末頃から目に付くようになった。特に今年はスナック菓子をばらまいたり、中腹の駐車場で傘を燃やしたりするなど十数件が確認された。5月には、遺族の神経を逆なでするような言葉を書き付けた短冊3枚も見つかった。
 事故で肉親を亡くした女性は「人間としてやって良いことと悪いことが分からない、かわいそうな人だとさえ思う。25年がたち、これから頑張っていこうと思っているところに、新たな悲しみが増えてしまう」と憤りをあらわにする。
 黒沢さんは「こんなひどいことは今までなかった。今後も続くようなら、警察に届け出ることも考えている」と話している。
 御巣鷹への登山者は、08年と09年に事故を題材にした映画が公開されたこともあって増加。開山日の4月29日から5月末までの登山者は約700人で、07年同期の約1・5倍だった。
                      
 2010年6月 サイト管理人
 美谷島邦子著 「御巣鷹山と生きる」で紹介されました
 8・12連絡会、事務局長の美谷島邦子さんが、「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」を出版されました。その中で、当サイトについて次のように記述して頂いています。

「マスコミではないが、ホームページで協力してくれる人もいる。『日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る25年間の記録』を25年間発信されている祝部幸正さんだ。事故が起きてからこれまで、新聞が取りあげた事故関連の記事の見出しを記録し続ける。8・12連絡会のことも、トピックを設けて取り上げてくださっている。事故を風化させないという変らぬ思いに、感謝の心が溢れる。」
 2010年4月29日 上毛新聞
 日航「寄付金出せず」

 
1985年の日航ジャンボ機墜落事故の慰霊行事を主催している上野村の財団法人「慰霊の園」(理事長・神田強平村長)の理事会が28日、村役場で開かれた。日航は会社更生法の下、経営再建を理由に2009年度の寄付金を出せないと報告した。本年度は500万円の寄付を予定しているが、関係者からは慰霊行事継続に不安の声も上がっている。
 日航事務統括部長の山口順一さんは「支出などについて社内で決断するのに時間がかかり、管財人の許可がないと寄付もできない」と説明、理解を求めた。
 財団の09年度の収入のうち08年度からの繰越金は約1400万円。この金額で年間運営費をまかなえるが、赤字になった場合、財団の積立金を取り崩すこともあり得るという。
 昨年に完了した御巣鷹の尾根の登山道整備で、日航は1200万円を負担することになっていた。だが、その当時から経営が厳しかったため、財団が積立金5億5千万円から1200万円を取り崩して充当していたことも明らかになった。日航は6月末までに600万円を返済し、残り600万円も早急に返済する意向を示した。
 遺族側は取り崩しにつてい「事前に説明をしてほしかった」と不満の声を上げた。遺族らでつくる「8・12連絡会」事務局長の 美谷島邦子さんは「取り崩した基本財産を元に戻してほしい。慰霊の園は価値あるもので、施設や慰霊行事は必ず守りたい」と話した。
 神田村長は「寄付金が出ないことで運営は厳しくなると思う。積立金の利率も年々下がる一方。再建中の日航も厳しいと思うが、村だけでは運営費をまかないきれない」と不安を口にした。

 2005年7月22日 YOMIURI ONLINE 読売新聞 群馬
 事故から20年 基金も底・・・今や日航の寄付頼み

 上野村の松元宇隆村長(68)は7月21日、6月の就任後初めて、御巣鷹の尾根に登った。
 財団「慰霊の園」の前日の理事会で、黒沢丈夫前村長(91)から理事長を受け継いだ。山道を踏みしめながら、改めて520人の追悼慰霊を指揮する責任の重さを感じた。
 事故機が削り取った山肌は、成長した樹木で変容し始めていた。遺体が集中したスゲの沢の斜面も生い茂った樹木で、墓碑が所々隠れていた。松元村長は尾根の整備の必要性を実感した。
 慰霊事業は厳しい情勢が続いている。
 事故では、最終的に518人の身元が確認される一方、身元が特定できない部分遺体が残った。これに対し、身元不明の遺体の埋葬を死亡地の自治体に義務づけた「行旅病人及び行旅死亡人取り扱い法」が適用され、上野村は「慰霊」の宿命を負った。
 村には日航・ボーイング社10億円、村内7000万、一般5500万円など計約11億4000万円の寄付が寄せられた。そのうち、共同墓所や追悼広場、登山道の整備などに約8億8000万円が使われた。
 残りを基金に1986年2月、黒沢前村長を理事長とする財団「慰霊の園」が設立された。日航側から約3億円の追加寄付を加え、基金は約5億5000万円となった。黒沢前村長は「財団を設立して基金を持たせ、利息で永代供養の事業を行おうと考えた」と話す。
 しかし、91年度に約4120万円が得られた利息は、利率の低下から年々減少し、00年度には約260万円と急減。02~04年度は60万円台だ。昨年度の利率は0・12%で、黒沢前村長は「まさか金利が、ここまで低くなるとは」と財政事情の厳しさを認める。
 支出は施設整備が一段落した95年度以降も、登山道補修や式典費用、人件費などで2950万~1180万円かかった。金利運用での不足分を取り崩した結果、財団の積立金は91年度の8000万円から、00年度には底をついた。日航は過去計5回、総額1億3200万円を追加支援した。「年度末に日航に寄付してもらっては、予算を組んでいる状態」(上野村)だ。
 7月4日、日航の新町敏行社長と松元村長が会談し、今後も協力して慰霊活動をしていくことを確認した。財団支援について、新町社長は「今後もできる限りの誠意を尽くしたい」と語った。
 黒沢前村長は「世界の航空会社で事故後、(遺族への補償後も)地元に20年も金を出し続けているのは日航以外ない」と言う。その“異例”な支援が今後も同様に続くかは不透明だ。
 松元村長は施設補修や人件費の切り詰めで出費を抑えながらの事業の継続を掲げる。しかし、同時に「(日航側には)お互い考えるところを酌んでもらいたい」との言い回しで、日航頼みの現状を認める。「年を重ねるごとに、厚みが増して重要なものになってきている」と松元村長がいう慰霊事業は、踏ん張りどころを迎えている。
 2009年12月7日 asahi.com 朝日新聞
 保守王国、神迎える出雲へ

 出雲人の旧暦で10月10日は物音をたてぬ決まりだ。年に一度、八百万(やおよろず)の神々を迎える神事の日、神迎えの道沿いの民家のあかりも消える。
 今年は11月26日、出雲大社(島根県出雲市大社町)の神職が、日がとっぷり暮れた浜辺で、かがり火を前に祝詞を読みあげた。氏子ら数千人が神籬(ひもろぎ)とよばれる台座に神々がのりうつるのを息をひそめて見守る。
 「おーおー」。神職が神籬を白い布で覆いながら朗々と警蹕(けいひつ)と呼ばれる声を発し、出雲大社へ神々を導く。
 本殿の大屋根は檜皮(ひわだ)の葺(ふ)き替え中だ。この間、神々は隣の拝殿にうつるため、工事を「遷宮」と呼ぶ。平成の遷宮は昨年始まり、平成28(2016)年に終わる。
 遷宮はおおむね60年に一度。明治の遷宮は幕末に持ちあがり、維新後、終わった。昭和の遷宮は戦前に練られ、戦後完成した。本殿の修理がおわった昭和26(1951)年は、竹下登氏が島根県議に初当選した年でもある。
 昭和の遷宮は宮司が中心となって出雲ゆかりの人を頼りに寄付を募った。平成の遷宮の音頭をとるのは、伊勢神宮のある三重県出身の奥田碩トヨタ自動車相談役。氏子総代で自民党の青木幹雄氏が招聘(しょうへい)したといい、80億円を集める計画だ。
 中央政界で権勢を誇った青木氏も75歳。来年夏、参院島根選挙区で改選を迎える。政権が移ったこの秋、竹下、青木両氏を送り出した出雲の地へ、「保守」の原型を探しに幾度となく通った。

■青木氏も「だんさん」に仕えた
 柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせむ
 奈良時代に完成した日本最古の正史「日本書紀」は、出雲大社の本殿をこう描写している。
 司馬遼太郎が初めて出雲の地に立ったのは、竹下登氏が中央政界に入ってまもない昭和35(1960)年の秋だった。本殿を仰ぎみた時の思いを「生きている出雲王朝」にこう書き残した。
 「上古においては神殿の高さは三十二丈あったという。また、中古は十六丈、いまは八丈という(中略)。平安初期でもなお大仏殿より大きかったのである。古代国家にとって、これほどの大造営は、国力を傾けるほどのエネルギーを要したであろう」
 1千年を超える歴史のなかで本殿は再建や改修を重ねた。司馬がこの地を訪れてから半世紀。遷宮中の本殿は、大手ゼネコンの造った巨大な建造物に隠れていた。

 「旧大社町の住民は、みんな氏子でございます」
 社務所に赴くと、白装束に紫のはかま姿の神職が教えてくれた。
 島根県出雲市大社町は、日本海に突き出た島根半島の西のはしにある。町民およそ1万5千人は全員、出雲大社の氏子だ。

 松の参道を抜け、門前町に出る。菊や柿、栗を生けた竹筒が家々の軒下を彩る。四半時も歩むと米蔵と酒蔵のある白壁に囲まれた黒瓦の大屋敷があった。手銭(てぜん)白三郎さんの住まいである。
 酒造業と回船業で栄え、代々、「白三郎」を襲名してきた。当代は県の公安委員長。2年前までは県議だった。氏子から「手銭のだんさん」の尊称でよばれる。
 神主、医師、大地主、官吏(国・県)、駐在所の巡査。

 「だんさん」と呼ばれるのはこの人たちだけだ。中央政界を牛耳った竹下氏も青木幹雄氏も「だんさん」でなく、むしろ「だんさん」に仕える側だった。
 さらに西へ向かう。かまぼこ屋を過ぎたあたりで急に道はせばまり、緩やかな坂の向こうに藍(あい)色に染まった日本海がみえた。ガラス戸にカーテンがかかった木造家屋が所せましと並ぶ一角に、生け垣に囲まれた庭園のある家がある。
 青木氏の生家だ。
 「地元に帰ると、必ず朝とれた魚が届くんだわね」
 漁協組合長だった青木氏から永田町で、そんな自慢話を何度か聞いたことがある。

 狭い路地を10軒ほど進むと、思わぬポスターが飛びこんできた。
 《貧困なくし、平和な日本へ 政治の中身をかえる》
 共産党の志位和夫委員長が笑顔で訴えている。
 ガラス戸の玄関をあけた。
 「寒いでしょ。さあさあ、奥のこたつへどうぞ」
 祝部(ほうり)幸正さんは4年前まで旧大社町の町議だった。今は青木氏の隣の集落で「町内会長」を務める。集落には元々、診療所をかまえる医師の町議がいた。祝部さんはその後を託され、7期当選をかさねた。
 「町内会の婦人部の人が炊き出しをしてくれて、自民党支持者も『うちの町の代表だ』と言って総出で応援してくれたんですよ」
 町議になってまもなく、役場ですれ違った青木氏から「同じ町内だから頼むけんな」と声をかけられた。一方、「おまえのところは町内会べったりだ」と先輩からたしなめられることもあった。

 旧経世会(竹下派)が最後の光を放った小渕内閣の官房長官に青木氏が就いた10年前の秋。大鳥居に続く神門通りで氏子2千人以上が小旗行列をつくった。大社町の156ある町内会がおのおの10人程度の参加を申しあわせ、5日前から連日、有線放送で参加をよびかけた。当時の町議会議長は声を張りあげた。
 「主義主張を乗りこえ、参加した皆さんに感謝する。青木先生は町の誇り」
 永田町で「保守」というと、戦後レジームからの脱却を掲げて対立軸を作り、保守再興をめざす安倍晋三氏を思い起こす。かたや出雲では、祝部さんも青木氏も同じ氏子たちに支えられている。保守とは作りあげるものなのか、元々そこにあるものなのか、考えこんでしまった。・・・

  南彰(みなみ・あきら) 30歳。神奈川県藤沢市生まれ、東京都渋谷区在住。昨春、政治記者となり、現在は青木幹雄氏を担当。参院選まで随時、出雲に滞在し、政治風土を取材する。





▲ページのトップへ▲
家紋・右三つ巴紋

祝部幸正(ほうりゆきまさ)
 
 
    管理人プロフィール

姓名:祝部幸正。「祝部」は(ほうり)と読みます。古語辞典では「はふり」で「祝」と書きます

生まれ:1944年(戦時中です)

住まい:出雲市大社町、直ぐそこは日本海、出雲大社まで徒歩10分。

職歴:電電公社・NTT勤務、無線技士、(鹿島町、広島市、松江市の無線中継所で勤務、マイクロウエーブで電話・テレビの中継、VHFや通信衛星での災害復旧用無線の仕事など)、最後は島根支店・マルチメディア推進室、54歳で退職  現在無職

経歴:大社町議会議員7期27年

   医療法人・出雲市民病院グループ理事
   菩提寺、曹洞宗のお寺の護持会長
    1969年、広島労演副運営委員長


HOMEへ